作家の今井美沙子氏がこういう文章を記している。「私は子どもの頃、父と母が全く正反対のことを言うので悩んだ事があった。それは『苦労』についてであった。母は『若か時の苦労は買うてでもせえというけん、苦労はした方がよかとよ』と言った。父は『ミンコよい、せんでもよか苦労はすんなよ。あんまり苦労ばすると人間が悪うなることがあるけん』と言った」(「母の心・父の心」)。両親の言うことがちぐはぐだと、子どもは混乱する。「この前言ったことと違う!」。確かにそれでイライラさせられることもあるが、そうした考え方の相違を両親から示されると、混乱しつつも物事を相対的に受け止める姿勢も養われるのではないか。要は人生で硬直した「白黒思考」に陥ることから解放されるのである。
「善か悪か」、「損か得か」、「益か無益か」、「用か無用か」、確かに二分法はめりはりが効いて分かりやすいし、複雑な問題が非常に簡単明瞭になるように感じられる。すると自分が今感じている不快さ、あるいは生きにくさの原因が、まさにそこに発している、と思い込んでしまうのである。しかしこうした二分法で物事を理解しようとする姿勢は、心を偏狭にし、さらに自分生き方を不自由なものにしてしまうであろう。どだい人間の問題は、簡単には割り切れないものであるのだから。
2025年のノーベル化学賞に輝いた北川進氏は、受賞の記念講演で、座右の銘としてきた「無用の用」に触れ、何もない所に仕切りを入れ、これまた何の役にも立ちそうにない隙間を作る、そうして開発した多孔性材料は、地球上でふんだんにある気体を制御し、資源として変え得るのだと説いた。「無用の用」を地で行く道を切り開いたといえようか。実験の待ち時間に学生から思わずこぼれた一言が、発想の転換につながったとも語られる。
時代はイスラエルの王アハブの治世、北イスラエルの王として22年の間在位(前871~852年)し、対諸外国にはシリア(フェニキア)の王女イゼベルを妻に迎え同盟を強化した。それを契機に、盛んにシリアのバアル崇拝がイスラエルに導入されたが、一面、近隣諸国の文化の移入であり、またイスラエルの宗教性、精神性の国際化ともいえる。そして、シリア人やカナン人、フェニキア人との交流や同盟を通じて経済力と軍事力を増大させ、婚姻によりユダに影響力を行使し、ダマスコに並ぶ北パレスチナの地域大国としてイスラエルの地位を飛躍的に高めたとされる。在任中、政治外交的にはアハブは、有能な王としてふるまったようだ。しかし国際的に開かれた国家が担う宿命として、外国の文化や価値観に強く影響を受け、イスラエル固有の伝統が揺るがされることにもなった。それゆえ、イスラエルの伝統の破壊者として、アハブはエリヤを始めとする預言者からは、鋭く批判されたのである。
今日の聖書個所は、「エリヤとバアルの預言者」と題されているが、他の聖書では「カルメル山の対決」とも呼ばれる有名な個所である。ドラマとしては痛快な筋書きである。450人もの異教の預言者に対して、孤高の預言者、エリヤひとり立ち向かうのである。しかも対決の舞台は「カルメル山」だという。その山はパレスチナ北部に位置し、南北39kmにも広がる丘陵地帯を形づくり、かつてこの地はアフリカからユーラシア大陸の玄関口として、西側には旧石器時代前期から現代まで50万年に渡って人類の進化を示す遺跡が点在している。ここはフェニキアの一部であり、カナンのバアル宗教の聖地、いわば本拠地とも言える場所である。アハブ王に対面した預言者は、王にこう求める。「今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい」。イスラエルの衆人環視の下で、異教の預言者すべてと決着をつけると宣言するのである。
聖書の中で、エリヤとアハブ王ほど、犬猿の仲、水と油の間柄の関係はないだろう。そうでありながらも二人は、腐れ縁とも言うべき因縁の関係を続けるのである。これも神が取り結ぶ縁なのか。アハブ王はこの預言者を、「わたしの敵」と呼び、今日の個所では「イスラエルを煩わせる者」と呼んでいる。王も余程、厄介な人物として対処に苦労したのだろうが、アバブ王ばかりでなく、歴代のイスラエル・ユダの王には、必ずこうした厄介な預言者が付きまとっている。サウルにはダビデ、ダビデにはナタンという具合に、そして神から遣わされる預言者は制度化された役職ではなくて市井の人間なのである。それが一国の主に辛辣な批判を行うのである。これこそがイスラエルの健全さを保つ復元力として作用するのではあるが。やがて「預言者は眠りについた」と口にされる時代が来る。
エリヤは敵陣の真っ只中に一人で乗り込み、雌雄を決しようと言うのである。常識的に判断するなら、アウェイでしかも多勢に無勢、あまりにも無謀な挑戦である。そして多勢の異教の預言者達に「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」と乾坤一擲の如く、切断を迫るのである。
この個所は、信仰的純粋さを喪失し、異教の神礼拝、即ち偶像礼拝に堕したアハブ王はじめその民イスラエルに対して、ヤハウェ宗教への回帰を訴える物語として、痛快なドラマが繰り広げられる。但しこの物語を、単に「あれかこれか」の「白黒思考」で理解してはならないだろう。つまり殊更に信仰や宗教の純粋性を問う説話として読んではならないと言うことである。即ち、一番の問題は、アハブ王の政策によって、イスラエルに何が生じたか、なのである。
サマリア(イスラエル)は3年間の干ばつに見舞われていた。対決の物語の発端はこう伝えられている。2節「サマリアはひどい飢饉に襲われていた。アハブは宮廷長オバドヤを呼び寄せた――オバドヤは心から主を畏れ敬う人で、イゼベルが主の預言者を切り殺したとき、百人の預言者を救い出し、五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養った――。アハブはオバドヤに言った。『この地のすべての泉、すべての川を見回ってくれ。馬やらばを生かしておく草が見つかり、家畜を殺さずに済むかもしれない』」。未曽有の危機や困難の中、それでも苦しむ主の民を「パンと水」で養われる神のみわざがある。それを全く見ようとせずに、自らの技量と知見に拘泥するアハブとイスラエル、偶像崇拝の本質は、まさにそこにある。人間の目の判断が、世界を決するすべてではない。
今井氏の言葉はこう続く、「私は母に訊いた。『かあちゃん、私は苦労は好かん、苦労ばいっぱい背負(から)わされたら私は心も身体も弱かけん、とても辛抱しきれんと思うばってん』母は答えた。『なんの、神さまはさ、あがの背負い切らん苦労はさせんとたいね。神さまはその人その人に応じて、背負い切れる十字架ば背負わすけん、安心したらよかとよ』。その母の答えを聞いて、私はホッとした」。
人間は物事を「白黒思考」で考えようとする。どんな人生も生きるには「苦労」はつきものだが、それを単純に「良い」か「悪い」かで判断できるものでもない。むしろそこにも神の御手は伸ばされて、「背負い切れない苦労はさせない」神がおられる。それを知ることで人生の意味や味わいが、深まるのではないか。
「我々はインターネットという媒体を通して、不特定多数の人に記事を届けている。だが、記事を書く時は『この人に共感してほしい』という人を思い浮かべる。その人の心に届けば、全員とまではいかないまでも、多くの人に共感の輪を広げることができる。誰に向かって言葉を発しているのか分からない人たちもいる。その典型が、『国益』を口にする人だ。国益というのは、具体的には何を指すのか。個々人の幸せと何の関係があるのかがよく分からない。国益を持ち出す人は警戒する必要がある。『国益なんだから納得しろ』という乱暴な思惑を伴っているからだ。誰かを思い浮かべて言葉を発する場合、「個から全体」に共感が広がる。だが『国益』と言う人は、『全体から個』に同調圧力をかけてくる」(渡辺周「『国益』って誰に言ってる?」)。