祝クリスマス。作家として多彩に活躍した向田邦子氏の第1作目のエッセイ集、『父の詫び状』に収録されている1篇に『チーコとグランデ』という題名の作品がある。タイトルの「チーコ」と「グランデ」とは、其々スペイン語で「小さいサイズ」、「大きいサイズ」を意味する言葉であるという。氏は随筆の中で、出版社に勤めていた若い頃のクリスマスの晩の思い出を振り返りつつ、食べ物の大小がつい気になってしまう性分であるというエピソードをユーモラスに綴っている。来客があるたびにお土産のサイズのことで気を揉んでしまうという話や、スペイン語圏を旅したときにはあらゆる食べ物のサイズが大きくて驚いたという話など、どこかノスタルジーを感じさせる逸話の数々が、まるでキルトのように巧みに編まれている。丁度、クリスマス・ケーキ(バタクリーム製の)を母親が切るのに、虎視眈々を目を光らせて凝視していた子どもの頃を想い出す。嬉しいのだが、期待するほどおいしくもなかった。
エッセーではこう語られる「私は小さなクリスマス・ケーキを抱えて、渋谷駅から井の頭線に乗っていた。(中略)当時私は日本橋の出版社に勤めていた。会社は潰れかけていたし、一身上にも心の晴れないことがあった。家の中にも小さなごたごたがあり、夜道を帰ると我が家の門灯だけが暗くくすんで見えた。私は、玄関の前で呼吸を整え、大きな声で「只今!」と威勢よく格子戸をあけたりしていた」。昭和の何年くらいの想い出だろうか。クリスマスに小さいながらも家族でケーキを口にできる程度には、この国は復興していた頃か。
「それにしても私のケーキは小さかった。夜十時を廻った車内は結構混み合っており、ケーキの包みを持った人も多かったが、私のは一番小さいように思えた。父はクリスマス・ケーキなどに気の廻るタチではなく、いつの間にかそれは長女である私の役目になっていた。甘党の母親や妹・弟たちのために買った一流店のケーキの包みを抱えつつ、『来年はもっと大きいのにしよう』、と考えながら車内でウトウトしていると、なんと目の前の網棚に、買った店のものと同じ大きなクリスマス・ケーキが置き忘れられていることに気づく」。自分のケーキは一番小さいように思える、そして奇しくも電車の網棚に忘れられている大きなケーキ、皆さんならどうするだろうか。
今日の聖書個所は、いわゆる「マリアの賛歌」と呼ばれる。伝統的に「マニフィカート」という呼び名を与えられて来た。ラテン語の聖書で、この歌の冒頭は「わたしはあがめ(大きくする)」から始まるゆえに、最初の字句を取って、そのように呼ばれ、信仰者に親しまれてきた。マグカップの「マグ」である。
これまで何度か「歌」の起源やら語源をお話したが、「訴える」が元々の語源であり、「歌うこと」は、人間の脳の、最も古い部分に根ざす機能とされている。つまり自然界の野獣等の脅威に、歌声で立ち向かうツール(武器)、恐がらせるという役割を果たしていたようなのである。コーラスの時、ハーモニーの音を外して歌うと顰蹙を買うが、それは聴く者を不安にし不快にするからである。野生動物も同様に不協和音におびえるのである。実はそれは、かつての歌というものの役割の原型なのであるとも言えよう。確かに、会社や国や軍隊でも、人間の集団や組織には、歌がつきものであり、これが結束や士気を高める働きをしている。「歌」は兎にも角にも私たちの心を大きく、勇気あるものにするのである。
この「マリアの賛歌」もまさしく「歌」と呼ぶにふさわしい、勇壮な調子を持っている。福音書ではこの時、マリアは成人したばかり、十代の半ば位の年齢であったと、著者は考えているようだ。その年齢からすれば、この歌の内容は、不釣り合いなほどの強いインパクトがある。本当にマリア自身の言葉が元になっているかどうか、疑問も呈されて来た。但し、聖書には、女性による賛歌がいくつか収められているが、モーセの姉ミリアムが歌ったとされる出エジプト記、紅海の渡渉の直後の「ミリアムの歌」、あるいはサムエル記上2章の「ハンナの祈り」の章句も、それぞれ勇壮で大胆な表現が駆使されている。だから聖書学者たちの中には、著者(ルカ)がそれらの女性の手になるとされる旧約の賛歌を、アレンジして、うら若いマリアの口に乗せたと解釈する者もある。
しかしどうか、毎年、原爆記念日に語られる小学生、中高生の「平和のメッセージ」を聞くたびに、あいまいでいい加減で、ことなかれ主義の私たち大人の心を、彼らの純粋で真摯な「ことば」は、私たちの心を穿ち、恥じ入らせるではないか。マリアが年若いとはいえ、このような歌は歌えない、というのも、一方的な決めつけである。聖書において「ことば」は、決して人間の能力レベル如何の問題ではなく、神の霊とのつながりの中でとらえられるべきものである。神の霊は平凡な人間に、新たな地平を開くのである。
「マニフィカート」に歌われている内容は、階級闘争的な、下克上的な地位の逆転、という色彩が強い。「おごれるものは久しからず」である。「高慢な者をちりぢりにし、権力者を引きずり下ろし、富裕者を飢えさせる」と既存の価値や物差しを逆転させる神のみわざを、鋭く語るのである。このような大いなる変化や逆転を、私たちは夢物語のように感じ、この世の現実の有様を、不動で決して突き崩すことのできないものとして、無力感にも襲われるのである。本音は変わりたくない、変わって欲しくないという保守的な願望に捕らわれているのかもしれないが。しかし神は、人間の思いを超えて働かれ、いつか変革を呼び覚ますのである。そのことは教会を見れば一目瞭然である。教会ほど「保守的」なところはない。集う者は高齢者がほとんどであり、伝統を重んじ、礼拝は同じことの繰り返しである。そしてその中で教会はひどい罪や過ちをも、犯したのである。しかしそのままで時間だけが過ぎたのではない。「変化」したのである。そしてそれは人間が意図し努力して、というのではなく、「聖霊の働き」、つまり「見えない力」に突き動かされて、変えられたとしか言いようがない。
「マニフィカート」は、聖書において、他と異質なトーンを放っているのではない。主イエスの告知した「神の国」は、実に「後の者が先になり、先の者が後になる」、「幼子のような者たちのもの」なのである。あるいは、「貧しい者は幸い、飢えている者は幸い」という、この世の論理が裏返されるところなのである。マリアはその神の国を、み子の語る福音の先駆けとして、自ら高らかに歌うのである。
マリアの賛歌のもろもろの調べの基調は、48節にある。かのマルティン・ルターも、聖書を母国語に訳すにあたり、このみ言葉にこだわったのである。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めて下さったからです」。しかし原文に忠実に訳すなら、若干ニュアンスが異なる。「この主のはしための卑しさをも、顧みて下さった」。日本語の聖書では、文語訳がそのように翻訳している。主が目を留められるのは、「身分の低い(卑しい)はしため」ではなく、「はしための卑しさ」なのである。つまり身分の低い憐れなものを、かわいそうだとばかり憐れんでくださる、というのではなく、どんな人間でもその内に抱える「卑しさ、小ささ」に目を注ぎ、これを顧みて下さる、というのである。神は人間の美点や長所や、人に誇れる有能さに目を向けられるのではない。全能の神の目にとっては、人間の誇りなど、塵芥に過ぎず、そんなところで人間を判断されるようなことはない。却って、人間ひとり一人が抱える、自分でもどうにもならない不甲斐なさ、情けなさ、即ち「卑しさ」に目を留めて下さって、そこに大きな恵みと慈しみを注いでくださる。「愚かな子ほどかわいい」と言うではないか。このまなざしがあるからこそ、そのままに生きていけるのである。
「人間の尊厳」、「生命の尊厳」とは「万人の生まれながらの無条件の価値」と説明される。それでもすぐに生産性がどうの、社会貢献、付加価値がどうの、としきりに裁量がなされる。尊厳の根拠はどこにあるのか。人間の卑しさ、欠けや足りなさ、情けなさ、即ち小ささを、切り捨てるのではなく、深く憐れみ顧みてくださる神がおられるからこそなのである。人間の狭い料簡による価値の判断、決めつけ、おごり高ぶり、ひとりよがりを打ち砕く神のみ手は、確かにここにある。そして、クリスマスにそのみわざは現実となった。飼い葉桶の中に寝かされた赤ん坊の姿で。
向田氏のエッセーの続き、「私(作家)はとっさに『誰も見ていない。取り替えよう』と思うのだが、それは一瞬のことで、電車はホームにすべりこみ、私は自分の小さなケーキを抱えて電車を下りた。発車の笛が鳴って、大きなクリスマス・ケーキをのせた黒い電車は、四角い光の箱になってカーブを描いて三鷹台の方へ遠ざかってゆく。私は人気のない暗いホームに立って見送りながら、声を立てて笑ってしまった。結局取り替えることなどできずに、そのまま小さいケーキを持って帰路についた」。
「小さいより大きい方がいい」、と人はとかく考える。大きいのと取り換えられたら、自分の人生をそんな風にも考える。しかし「自分の小さなケーキを抱えて、電車を降りる」のである。小さなありのままの自分が愛おしいから、ではなくその小ささを愛してくださる神がおられるから。しかも、その神が見える姿で、飼い葉桶の中に私たちと同じように、嫌さらに小さくなって、誕生された。クリスマスは、そういう意味で、とんでもなくマニフィカートな(大きな)出来事なのである。