「乳と蜜の流れる地」、古代イスラエルの人々は、カナンの地(パレスチナ)をこのように祝福に満ちた場所として言い表したという。この呼称は、現在のパレスチナ一帯が、遊牧と農耕の両方において最高の環境であることの表現だと考えられている。「乳の流れる地」という喩えは、羊や山羊などの家畜がよく育ち、乳製品が豊富に得られる「豊かな牧草地」という意味であり、他方「蜜」とは、 花々が咲き乱れ、蜂蜜を入手でき、それ以上にナツメヤシの実やイチジクが良く実り、それから採れる甘い汁(シロップ)が溢れていることを意味しているであろう。「神の約束の地」にふさわしい喩えである。
現代イスラエル国は、国際関係上、軍事諜報国家としての側面がとかく強調されるが、実際は農業国であり、各種の農産物を生産し、外国に輸出も行っている。この国の農林水産省レポートにはこう記されている(2022年報告)。「国土の大部分が乾燥・半乾燥地域に属しており、点滴灌水技術、高度なハイテク生産システムが発達。同技術(点滴灌水チューブ、温室制御装置等)を世界各国へ輸出。イスラエルの農業は、共同社会である「キブツ」(農産物などの資産を共同保有し、社会的・経済的活動を全て分業する組織)や「モシャブ」(50~120 の農家が集まって土地や水などの資源を分配し、梱包・出荷場などの施設を共同利用)という組織によって成り立っている。これらの組織で生産された農作物はイスラエルの生産量の 80%以上を占める。主な農産物は、ばれいしょ、トマト、かんきつ類、パプリカ類、なつめやし等」。
現代イスラエルの農業は、「ハイテク生産システムと技術」の賜物であり、安楽に農業生産がおこなえる自然環境にはないことが理解される。「乳と蜜の流れる地」という表現は、やはり「40年の荒れ野の彷徨」という人生経験から導き出された、ある種の神学的「理念」の表明と呼ぶ方が正当であろう。即ち、荒れ野を放浪するような苦難に満ちた生活を重ねて寄留者として生きて来た彼らが、ようやく定着の場所、わが身の置き所を見出し、そこで生きることができるようになったという感慨、それは実に「乳と蜜の流れる地」に住むということであり、それは取りも直さず、神から与えられた祝福の地という意味合いで語られた「喩え」なのである。
「40年の放浪」が意味するところも、聖書学者たち(例えばM.ノート)が洞察するように、非常に長期間にわたるパレスチナへの徐々なる浸透のプロセスを語る表現であり、侵入に際しての武力的制圧のストーリー(土地取得伝承)もまた、神学的説話として理解されるべきなのである。すると今日のテキスト、「カナン偵察」の物語もまた、そのような視点から読まれることになるだろう。
2節「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい。父祖以来の部族ごとに一人ずつ、それぞれ、指導者を遣わさねばならない。」神がこれから足を踏み入れることになるカナンの地へ、偵察隊を送ることを命じられる。偵察する者は「各部族ごとに一人ずつ」という民族理念的な色彩も付与されていることに注意したい。「情報を制する者は戦いを制する(または時代を制する・ビジネスを制する)」と語られる。この言葉は、紀元前500年頃の中国の兵法書『孫子』の教え「彼を知り己を知れば百戦危うからず」に由来すると言われる。現代イスラエルの諜報活動(モサド)の巧妙さは、つとに知られているが、ここでは単に情報収集の重要性が強調されているのではないだろう。
モーセは、偵察隊に命じる、「ネゲブに上り、更に山を登って行き、その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」実に細大漏らさず緻密に情報を収集するように教え、さらに土地の果物(エビデンス)現物をも持ち帰るように、命じているのである。伝聞、風評だけで判断すれば、一方的な偏向した情報によって惑わされることへの警戒である。
この個所で最も興味深い点は、偵察隊が戻った時に口にした見解の相違である。30節「カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。『断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。』 しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、『いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い』」。進むべきかどうか、真っ向から意見が対立するのである。確かにすべからく情報というものは、白か黒かどちらか、というはっきりと断定できるような単純な質のものではないだろう。ところがここでの問題は、「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそ
う見えたにちがいない。」という台詞に端的に現れているだろう。
反対派のこの言葉を、「不信仰」とか「ネガティブ思考」とかいう言い方で、一刀両断に否定することは、いかがなものだろうか。誰でも未知の領域に足を踏み入れる際には、臆したり、脅威を感じ、後ろ向きな姿勢となることは否めないだろう。却ってそういう「臆病」が、災害時の身の安全に繋がるとも言えるのだが、「食い尽くすような土地」とか「いなごのように小さい」という認識で、その未知なる領域を「怪物」のように勝手に思い込み、そこに足を踏み入れようとする自分自身を、あまりに過小評価することこそが、最大の問題ではないか。
大きな恐怖は、過度の警戒と懐疑と、ひいては暴力をも生み出す。前述のようにイスラエルのカナン定着は、良心的な歴史家の見るように、長期にわたる平和的な浸透(時に、小競り合いはあったものの)によるものである。しかし、そこに寄留しようとする人間たちが、「アンコン」に捕らわれて、自ら自由に身動き一つできなくなってしまったとするなら、「約束の地」は「乳と蜜の流れる地」ではなくて「血の流される地」に変わるであろう。現代の国際関係上の現実の姿が、時を隔てて行間から鮮やかに読み取れるのではあるまいか。神の祝福は、実に「平和」の裡に付与されるであろう。