花の日・子どもの日「救われるためには」使徒言行録16章16~24節

今日は「花の日・子どもの日」礼拝を守る。教会に子どもたちを招いて下さる神のみこころと大きな恵みを覚える時である。花の日礼拝は、教会の子どもたちに祝福と献身とを願って、会堂にたくさんの花を飾り、礼拝したことに由来するが、「花」と「子ども」、これほど似つかわしい取り合わせがあろうか。この町出身のクリスチャン詩人は、「花見て怒る人いない」と語ったが、子どもに対してはどうだろう。もはや子どもがいて当たり前、という時代は過ぎた感がある。花も子どもも、間近に出会って、じっくりと見つめて、言葉をかけ、ふれあう時に、それまでの私の心が変えられるような体験をするのではないか。

さてこういうエッセーを目にした「6月のこの時期、雨が続くのは気が重いが、アジサイの花が私の心を軽やかにしてくれる。(中略)アジサイはあそこにもここにもと意外と多くの場所で咲いている。いつも不思議に思うのは、咲かないと、そこにあることに気づかないことだ。咲いた花を見て、初めてその存在を知る。いつもの散歩コースや駅までの道なら毎年見ているはずなのに、花のない季節には、ほかの植物に化けてしまったかのように姿を消してしまう。1ヵ所だけ、歩道に沿って毎年咲く場所を知っている。しかし、冬に通りかかると、薄茶の枯れ木がごつごつしているだけだ。あれ、ここにアジサイがあったはずよね?と心配になる。冬を越す姿は、私を虜にする花からは想像できない」(松本泰子「なんや、おまえ、アジサイやったんか」)。いつもの慣れ親しんだ散歩コースに、アジサイが咲いているのに気づいて、「アジサイやったんか」と驚くのも、確かに一興である。

「いつも不思議に思うのは、咲かないと、そこにあることに気づかないことだ。咲いた花を見て、初めてその存在を知る」というアジサイという花の個性、その花を発見した時の驚きに共感を覚える。アジサイに限らず、野の花には皆、そのよう風情があるように思う。聖書の世界の「野の花」、主イエスが「野の花を見よ」とあえて発言したのは、「咲いた花を見て、初めてその存在を知る」という側面が、この国以上に強いからだろう。乾燥の激しい気候で、地表一面がからからに乾く乾季では、荒れ野はただ赤茶色に生命の痕跡すら定かでないという風景が広がる。しかし、一度雨が降ると、何もなかったような荒れ野一面に、花が咲き出でる。しかしそれとても、砂漠の風が吹きつければ、萎れて枯れてしまう。余程、しっかりと目を開かなければ、今日は咲いていて、明日は萎れて枯れる野の草の可憐さは、捕らえられないだろう。主イエスは詩人の心を豊かに宿しておられたのかもしれない。

さて、今日の「花の日礼拝」の聖書個所は、使徒言行録14章「パウロたち、投獄される」という表題が付けられており、およそ「花」には似つかわしくないテキストである。先ほど「花見て怒る人いない」と申し上げたが、世の中はどうもそういうちぐはぐな取り合わせが、幅を利かせているように思える。

ちぐはぐと言えば、初めて沖縄を訪れた時、あちらこちらに咲く、色とりどりの原色の鮮やかな花々を目にして、「亜熱帯」を実感した想い出がある。その原色に咲き乱れる花々とコントラストのように、海と空の青が美しく映える。有名な観光地「東南植物楽園」は、南国の木々や草木が露地植えされている広大な植物園であるが、熱帯の植物が繁茂して、木々の緑と花々が風にそよいでいる。ところがその楽園に隣接しているのが、嘉手納基地である。この楽園の上空には、アメリカ軍の戦闘機が、円を描いて訓練する爆音が、四六時中響いている。美しい木々の佇まいと、戦闘機の機影は、およそ似つかわしくない。そんな思い出がよみがえる。旅をして現場に身を置いてみて、初めて分かる「皮膚感覚」と言ったら大げさだろうか。どんなに異様な光景でも、慣れてしまえば感覚がマヒしてしまうという。いつも美しい自然の上を威嚇するように、戦闘機がぐるぐると回っている。これが当たり前の感覚になってしまう、これは実は恐ろしいことである。それを「慣れさせない」ために、私たちは、神の備えられる旅へと押し出されるのかもしれない。パウロもまた、主イエスのみ言葉を伝える旅に何度も、押し出されていった人である。

今日の個所では、パウロと彼の弟子シラスの宣教旅行のひとこまである。第二回目の宣教旅行、パウロにとって自分がリーダーシップを取っての最初の旅である。一回目の旅行は「バルナバ」という面倒見の良い、温和で包容力の豊かな苦労人、心強い味方が音頭を取り、一緒に歩んでくれた。ところが二回目の旅行でパウロは、この好人物バルナバと対立して、同行を拒絶するのである。これはパウロにとっても痛手だったろうが、強気に出た手前、弱音は吐けない、という塩梅だったろうか。但し、一度目とは段違いに、二度目の旅行は距離も長いし、期間も長く、いろいろな厄介な事件が待ち受けていた。

今日の個所では、占いの霊に取りつかれた女と出会い、この女にしつこく付きまとわれたというのである。パウロはよそ者で、まして「十字架と復活」という風変わりの言説を語る者だったから、一種の嫌がらせをされたのだろう。「占いの霊」とは「ピュトンの霊」という用語が用いられている。ピュトンとは神話的な「大蛇」のことで、古代「蛇」が何か神秘的な生命力、不死の力をもっていると信じられたことは、医学の紋章にも用いられている通りである。脱皮し殻を脱いで生まれ変わったように見える、復活と再生の隠喩のように理解されたのである。

先週、久しぶりにこの教会に住んでいる蛇と庭で再会した。いつもどこに身を潜めているのかはわからないが、元気に生きているようだ。生命というのは不思議に守られているところがある。いつもはどこにいるのか分からないが、ひそかに隠れて共に生きている、蛇という生き物のこういう不気味な性質が、創世記の誘惑の物語の背景にはあるだろう。ギリシア世界には蛇を使う見世物がよく知られていたようだ。生きた蛇を用いて、腹話術のように面白おかしく見物人に宣託を語って見せたのであろう。今で言うならば大道芸である。

ところがあまりにしつこくうるさく絡んでくるので、パウロは堪忍袋の緒が切れたのか、厳しく叱りつけた。すると女が驚いてパニック状態になって手元が狂い、蛇に噛みつかれたか、またはパウロが手品の種を見物人にばらしたので、芸をしくじり、上手く演技できなくなったということであろう。すると主人が怒って、「営業妨害」だと訴えた。神殿や聖所では、縁日には大勢の人が集まるので、警備する市当局は騒ぎが起らぬように、常に目を光らせている。得体のしれぬよそ者がけんか騒ぎを起こしたというので、パウロたちはとっ捕まえられて、鞭打たれて懲らしめられたというのである。因みに「旅」”トラベル“という言葉は、古代では”トリパリウム“「三つまたの鞭」から派生した言葉である、「旅」をすることは、「鞭」打たれることでもあった、そしてさらにこの語は「仕事」を意味するようにもなる。ここでルカはレトリック感覚を披露しているのである。

「ローマに行ったらローマ人のように振舞え」という諺のように、見ず知らずの土地なのだから、よそ者らしく、もう少し遠慮し要領よく振る舞えば、パウロも鞭打たれることなどなかっただろう。但し、このパウロの起こした騒ぎによって、警備当局も後に厄介ごとを抱えることになるのである。聖書において「旅」は、ただ人間の都合や金儲けのために行うものではないから、いわば「神の旅」に、人間の方が付き合うのである。だから突拍子もないことが起って来て、旅人たちは慌てふためきもするのである。実際、ルカの記している出来事は、何と常識外れで、予想外れで、人間の思惑を超えて思ってもみないことだろうか。こういう旅に、今も神は私たちを招き給う。パウロの宣教の旅の主体は、実は彼自身ではなく、見えないキリストなのである。キリストが企画する旅は、まったく人間の予想のつかない旅である。そういう旅を人生の中でしてみるのも、悪くないだろう。

「神は道のないところに道を造る」、とは、アメリカの公民権運動の中で「活動家」たちの「合言葉」とされたスローガンであるが、実際にこの運動に参加した人々に共有された体験だったのだろう。こんなところに道などないだろう、無理だと思えるところに、神は道を造って下さり、そこに召された者たちを歩ませられる。その途上で、私たちはいろいろそれまで気づかなかったことを見出し、思いがけない出会いを与えられ、そこで新しい交わりや共に働くことが生まれて、更に出来事が起こり、自分自身が変えられる。丁度、主イエスの言う「野の花を見よ、空の鳥を見よ」、そんな些細な小さな出会いが、私を新しくするのである。

アジサイの話の続きをもう少し、「ある晩、ラジオをつけると、俳優の菅田将暉さんの『オールナイトニッポン』が流れてきた。寝る前だから静かな番組に変えようとしたとき、気になる言葉が聞こえてきて手が止まった。『アジサイの花は、まったく意識していなかった場所にぽっと出てきますよね。ふだんの生活にはない色合いで、こんもりしているから目立つ。急に出てきたアジサイに、「あ、なんや、おまえ、アジサイやったんか」と声をかけたくなる』」。

どうも「アジサイの発見」という感覚は、万人に共通するものらしい。こういう発見が、実は人生に潤いと豊かさを与えるのだろう。今日のテキストで語られるパウロの巻き込まれた騒動によって、彼は投獄され鞭打たれる憂き目を見る。ところがそれで神の旅は終わりにはならない。32節「そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った」。投獄が宣教の場になり、それで小さな教会の基礎が据えられ、パウロはまた新しい宣教の旅に出て行くのである。こんな中にも、「主イエスは生きて働いておられる」、これが信仰の旅の醍醐味であろう。道端の野の花、空の鳥からも、神はみ言葉を大胆に告げられるのである。