この6月半ばからFIFA、サッカーW杯が史上最多48カ国が参加して、史上初の3カ国の共同開催で(カナダ2都市、メキシコ3都市、アメリカ11都市)熱い戦いが繰り広げられている。 サッカーの国際試合について、10年ほど前にはこんなニュースが伝えられた。「コートジボワールをはじめ、西アフリカ諸国はいまも呪術が盛ん。アフリカ大会や過去のW杯では、呪術師が対戦国に呪いをかけるといった話題が何度も出ており、呪術師が逮捕されたケースもあった」。
コートジボワールは「呪術師大国」――。2014年6月13日放送の「モーニングバード!」(テレビ朝日系)では、在日コートジボワール人の男性が登場し、サッカーでPK戦となった際に、チームが呪術師に電話をかけてキッカーを誰にすべきか相談するといったエピソードを披露していた。代表チームは1992年に初めてアフリカを制したが、番組によると「呪術師に謝礼を払わなかった」ためにその後10年間低迷したという。2002年にようやく支払いを済ませると、その効果か2006年にW杯に初出場を果たし、今回まで3大会連続で勝ち上がってきたという。
程度の差こそあれ、アフリカはじめアジア、南アメリカでは、現在も呪術、呪術師が一般に認知されていると言われる。呪術は「宗教の原始的形態のひとつ」と説明されるが、医療、政治、経済、治安等すべての分野、人間の文化や営みに幅広く関わるものである。病人がまじないによって治癒したり、偽証の有無が呪いによって明らかにされたり、実際にその効果が現れるのである。実体に即して言えば、呪術そのものの神秘的、超自然的な力というよりは、現実にその呪術の力を認める人々がそこに居るから、効力を発するのである。この国でも、スポーツ対戦の必勝祈願がなされ、新年になるとチーム全員が寺社に参詣する姿が伝えられるが、当の神様にとってゲームの勝敗などはどうでもいいことであろうが、人間の側はそれで安心安堵する、という「効果」は確かにあるだろう。そういう意味で呪術師は相談役、ないしカウンセラーでもある。
今日の聖書の個所で、「バラム」という異教の呪術師が登場する。モアブの王バラクは敵対関係にあるイスラエル民の自国への侵攻を恐れ、「呪い」によって対抗しようとする。によって、イスラエルの勢力を減じよう、まず最初から「暴力」という手段ではなく、まず「呪いの言葉」によって自らを防衛しようというのである。古代から現代まで人間は絶え間なく戦争を重ねてきたが、古代の戦争の手段は、言葉による部分が大きかった。双方の軍が実際に戦闘の口火を切る前に、呪いの言葉によって相手の力を萎縮させ、無力化しようとしたのである。サムエル記上17章に描かれる「ダビデとゴリアトの一騎打ち」の場面で、彼らが最初に互いに罵り合っている様子が伝えられるが、その情景こそ古代の戦いそのものの姿なのである。その背後には言葉の霊力により頼む「言霊信仰」がある。現代でも、国際的摩擦が起きると、政治家や広報官が言葉によって牽制や揶揄や批判を行う。その言辞には何段階かのグレードがあって、状況にふさわしい言い方が選ばれる。これは呪術の名残である。言葉での対抗である。但し古代が、まず徹底して言葉を武器に攻防戦を繰り広げたのに対して、現代、たやすくミサイルという暴力に訴える傾向が強いのではないか。どちらが野蛮なのか考えた方がいい。
この異教の呪術師バラムは、売れっ子で高額な報酬を取って仕事をしていたようだが、イスラエルのエリヤ、エリシャら初期預言者と極めて近似している。エリヤ、エリシャも神の御言葉の伝令者であると共に、奇跡行為者でもあるが、御言葉は必ず出来事になるからである。ヘブライ語の「言葉(ダーバール)」は、「出来事」をも表す用語である。
バラムはバラクにより、イスラエルを呪うために雇われた。祝福でも呪いでも、それが力を発揮するのは、人間の言葉ではなく、神の言葉が語られるからである。だから力があり、何らかの出来事が生じる。ところが評判の呪い師、バラムは雇い主の期待を裏切り、まことの神の言葉、イスラエルの祝福を語るのである。この期待はずれの言葉にモアブの王バラクはあわてふためき、25節「呪えないなら、せめて祝福するな」と懇願する。しかし、まことの神は、異教の預言者をも、みこころのために用いるのである。その時、その時、敵も味方もすべての人が、まことの言葉を語ることになる。
今日の個所は、「言葉」についての聖書の考え方が、非常に明確に示されていると言えるだろう。22章38節「バラムはバラクに答えた。『御覧のとおり、あなたのところにやって来ました。しかしわたしに、何かを自由に告げる力があるでしょうか。わたしは、神がわたしの口に授けられる言葉だけを告げねばなりません』」。また23章8節「神が呪いをかけぬものに/どうしてわたしが呪いをかけられよう。主がののしらぬものを/どうしてわたしがののしれよう」。バラムは異郷の呪術師という設定だが、言葉に対して非常に正しい認識を示している。そもそも言葉は人間の道具ではなく、神の領分に属するものであって、まことの言葉は神よりもたらされる。さらに言葉が発せられる時には、その言葉自体が力を持って働き、神の出来事となって行くのである。丁度、天地創造の初めにこう記される、「神は言われた『光あれ』、すると光があった。神は見て良しとされた」。天地は神の言葉によってなり出来事となる。そして神の「よし」とされる言葉の他、神は語られないのである。
20節「見よ、祝福の命令をわたしは受けた。神の祝福されたものを/わたしが取り消すことはできない」。まことの神の言葉は、一度その口から出たなら、取り決ことはできない。「呪い」というが本来それは、不気味でおどろおどろしい禍の言葉ではなく、「祝福」をもたらすものなのである。そして「祝福」は、根本的には人間の都合や振る舞いや行為によって左右されない、神の自由な御心のあらわれなのである。だから人間の如何によって取り消されないもので、ついには人間を「幸い」へと押し出すものであると言えるだろう。
この物語の結末、24章25節「バラムは立ち上がり、自分の所に帰って行った。バラクも自分の道を去って行った」。バラムもバラクも、神の言葉によって、「自分の場所へ戻って行った」と語られる。この物語は、比ゆ的にイスラエルの土地取得の実情を暗に語るものである。(神の)言葉によって、戦闘が回避され、平和裏にイスラエルが定着する。その道筋を神の言葉が媒介する。言葉よりも先に手が出て、暴力に依存して、ことの決着を計ろうという人間の浅はかさと、それに対峙する神の言葉、これを今、私たちはどう聞くのだろうか。