「柳に風、のれんに腕押し、糠に釘」という諺がある。「批判や反発を受けても、のらりくらりと巧みに受け流す」、「手ごたえがない、張り合いがない」ことを指す。政治家でこういう人あたりや態度をする人もいる。普通ならふてぶてしい、面の皮が厚いとなるだろう。本来は、両義的な意味で使われた表現であろう。
私がお世話になった牧師のひとりで、もうすでに天国にいらっしゃるが、そのように呼ばれていた方がいた。穏やかな性格で人望があり、人の話を切り捨てず、豊かに聞く耳を持っていた人であったから、時に難しい議論を仕掛けて来る相手もいた。ところが、どんなに強く迫っても、対する姿勢は「暖簾に腕押し、柳に風」である。激論の末に関係が決裂する、ということがなく、そうかといって、いつも譲歩して相手の言いなりではなく、自分の筋をきちんと通される人でもあった。「あの牧師が提案すると、今まで通らなかった議案が通る」等とも評された。
この牧師が晩年、重い病を得て、病院ではなく自宅で療養されていた。もうすでに緩和ケアの領域であった。そして体の重さや痛みを味わいながらの療養生活の中で、一番の慰めは、ちいさなお孫さんの言葉であったという。ある時、おじいちゃんが寝ている枕元に来て、こんなことを言ったというのである。「じいちゃん、きのうは眠れてよかったですね、寝ている子のところには、サンタクロースが来ます」。小さな子どもは、どこからこんな言葉を紡いでくるのか、と日記に記していた。言葉で生きる人間は、やはり言葉によって、時に大きな慰めと嘆きを受ける。
15章は、また最初に「言葉」に注目しつつ、さまざまな知恵が語られていく。1節「柔らかな受け答え、強いもの言い」、旧約聖書の言葉、ヘブライ語は、強い調子、アクセントを持つ言語である。砂漠の言葉であるから、激しい風の中でも、相手にしっかりと声が伝わらなければならない。さらに意志を明確にするため、否定詞を文頭に置く習慣がある。こうした言語の特性は、コミュニケーションをよりはっきりとしたものにするだろうが、同時に歯に衣着せぬ物言いになるため、相手を不快にし、神経を荒立てることにもつながる。そういうところから、柔らかな、優しい物言いでありつつ、明確に意思を伝達することを、知恵の大きな役割としたのである。4節も同様で、「慰めの言葉」が称えられ、「意地悪な、悪意の言葉」が退けられる。
こういう話がある。10代、長崎で被爆し、長く「語り部」として各地を巡り、9年前に78歳で亡くなった吉田勝二さんの逸話には心を揺さぶられた。顔面などに大やけどを負い、痕が残った。周囲の視線に耐え、一歩ずつ社会復帰を果たし、結婚して2児の父親となる。小学校の運動会のお昼時。次男の友だちが言った。「おまえの父ちゃんは恐ろしか顔しとんね」。吉田さんは一瞬「来なければよかった」と後悔したという。しかし、次男はすぐに毅然と言い返したそうだ。「父ちゃんは原爆に遭(お)うたんたい。なんも怖いことはなか!」。「息子の言葉に救われました」と吉田さんは振り返る。そして、常々こうも語っていたと聞く。「平和の原点は、人の痛みがわかる心をもつことだ」。
そして23節「正しい答え」とは、まさに「人の痛みが分かる」心から出る言葉なのである。聖書の語る正しさは、間違いのない、誰も反論できない「正論」ではなくて、正しさを超えたもの、「憐れみ・愛」が込められているかどうか、で判断されるのである。すると最も良い言葉とは、「時宜にかなった言葉」となるのである。
次に15章で注目されるのは、神のまなざし、見ておられるところについての言葉である。3節「善人をも悪人をも」、対義語が並べられるとき、ヘブライ語では、「~から~まで」という意味を表している。だからここは「善人から悪人まで」という意味を表す。人間に二通りの人がいるわけではない。善人、悪人と2つの色分けはできない。いわば皆、灰色なのである。もちろん幾分か、白に近い人、黒に近い人はいるかもしれないが、灰色なのである。
旧約の知恵は、決してひとりの人間を、善悪2つのカテゴリーに分けて、救われるかどうかを語るものではない。私たちは皆、灰色の存在として、神の前に立っているのである。そこから神の目を感じつつ、どう生きるかと言う問いが生じるのである。この国の場合、大概のところ、自分の目と他人の目、この2つしか意識されない。だから人間の目を胡麻化せば、何とかやっていける。しかし神の目の前にある自分は、誤魔化しようがない。そこから真に生きる問いが生じて来る。この国の人間の課題は、誤魔化しのきかない「神の目」の前に立つ、という姿勢をどのようにつくるかなのである。
11節「冥府も、滅びの国も」と訳される言葉は「シェオール(地の底)、アバドーン(淵)」である。人は死ぬと光のない地下の見えない世界に行くと信じられた。元来、死の世界、死後の世界については、イスラエル人はさほど関心がなかった。死の世界は「忘れの国」であり、死者、故人のことを、皆が覚えている内は、生きているのと同じであるが、年を振るごとに、思い出は失われていく。死者は、忘れの国に行ったのだから、忘却の運命は免れない。思い出が失われる時、死者は初めから存在しないものとなり、全く消え失せる。
しかし知恵文学の時代になると、ギリシャなどの影響を受けて、神と死者の間はどうなるのか、という問いが生じた。神は死者に無関心なのか。神のまなざしにおいては「忘れの国(陰府)」は、すぐ目の前にある場所なのである。人間は誰でも忘却する。忘れることは人間の能力である。忘れることは恵みでもある。しかし神は死者を忘却するのではなく、いつまでも覚えておられる。生きている人間のはらわたを探り、その人のまことを極めるように。人間のまことは、死によって消え去るのでない、神のみ前に、ひとりも失われることはないのである。不条理がある。不公平がある。憤りがある、嘆きがある、それもまた神の記憶の中に留め置かれる。だから、ネガティブな思い出だけで、人生を満たすわけにはいかない。
15章の知恵の言葉で、さらに目を引くのは、金持ちと 貧乏人の対比である。旧約において、豊かな富、財産は神の祝福の具体的な表れである。すると貧乏は、神の罰と言うことにもつながる。これに対して一歩踏み込んだ考察がなされている。15~17節「貧しい人は、生きている間、いつもばたばたしていなければならない。しかし明るい心をもって生きれば、毎日、宴会をしているようなものだ(それもまたなお楽しい)」。バタバタ貧乏を宴会の準備をするホストに譬えているのである。そして「多くの財産を貯えて、失うことにびくびく恐れているよりは、貧乏で神さま以外を恐れるものなし、と言う生き方の方が、余程気楽だ」と語る。最強の人とは失うものを持たぬ人である。さらに「大ごちそうを食べて、食卓に策略をめぐらすよりは、質素な食卓で、皆で楽しんで食事をすることの方が、なんと楽しいことか」。人生の中に、喜びがあるかどうか、が生きる価値であり、喜びを作り出すことのできる能力こそが、知恵の発露なのである。何をして生きてもよいが、最後は人間、どのように喜びを味わうかに行きつくのである。イスラエルの知者は、あなたの人生にまことの喜びはあるか、と問いかけている。