「大胆に神の言葉を」使徒言行録4章13~31節

6月3日主日礼拝説教
「大胆に神の言葉を」使徒言行録4章13~31節

物事には裏と表がある。紀元前四四〇年ごろ、ギリシャの彫刻家フェイディアスがパルテノン神殿の彫像を完成させた。その彫像を見てアテネの会計官は支払いを拒んだという。「彫像の背中は見えない。見えない部分まで彫って請求するとは、何ごとか」。彫刻家は反論した。「そんなことはない。神々が見ている」。

「神が見ているのだから、手抜きはできない」、という名彫刻家らしい頑固な職人気質の人の言葉である。また「見えない所はどうでもいい」、とは、会計役人らしい言葉でもある。皆さんは、自分の人生を、どちらの思いで生きているだろうか。どんなことをも、神がご存知なのだから、全ていい加減にはできない、だろうか。確かに昨今の世間は、人様が見ていなければ、知らなければ、どんなことでもやってよい、許される、との風潮がある。かつては「お天道様が見ていらっしゃる」とか「あたしの了見が許さない」とか、気骨あふれる言葉が存在した。なぜそれが喪われたのか。

今日の聖書の個所は。3章から続く長い物語の棹美を飾る部分である。神殿の美くしの門の前に座る、身体の不自由な人と、ペトロ、ヨハネとの出会いが語られる。「わたしには金や銀は(お金)ないが、わたしにあるものを上げよう」。ここから出来事が始まる。初代教会の実情が、この一言で読み取れる。恐らく教会は、維持費や運営費の捻出に、非常に苦労していたのだろう。「金や銀はない」のである。しかし、何はなくても、教会にはあるものがちゃんとある。それはただ「主イエス・キリストの名」である。しかしこの一事、これを忘れる時、教会は他の世俗集団と何ら変わらなくなる。ところが、この「主のみ名」から始まる出来事が、大騒動を引き起こすのである。テキストの最後に「場所が揺れ動いた」とあるが、「主イエスの名」が教会を、そして地域を揺り動かしたというのである。「金や銀はない」、というこの世では惨めな憐れむべきその群れが、地域を、そこにいた人々を揺り動かした。事実これが教会というものである。

この個所のキイワードは、「大胆に」である。13節「ペトロとヨハネの大胆な態度」、そして31節「大胆に神の言葉を」。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めて大胆に祈れ。」かの有名なマルチィン・ルターのこれまた有名な言葉である。「大胆に」が幾度も繰り返されている。「大胆に、大胆に、大胆に」。これは何も「罪を犯しなさい」との勧めを語るものではない。この言葉の強調は、「大胆に」というところにある。恐らく、ルターの時代の教会の人々が、自信を失い、萎縮しおどおどと弱気になっていたことへの励ましであろう。そればかりか、ルター自身も、おどおどと弱気なっていたのであろう。カトリック教会からの圧迫、生命の危機、様々な批判・中傷、そして宗教改革のうねりの中で、これから教会や、キリスト者がどうなっていくのか、皆目分からないという不安や慄きに、彼自身も捕らえられていたのであろう。それで自らを励ますように「大胆に!」。

あるキリスト教施設の職員から聞いた話しである。その施設では、非キリスト者職員が結構、バプテスマを受けることで知られている。普通、余りそういうとはない。なぜそうなのか。職員は言う「ここの園長先生でもキリスト者になれたのだから、自分だって大丈夫」。そのデモシカ園長さんが、日ごろどんな言動、振る舞いをされいるか知らないが、あまり人のお手本になるような、謹厳実直居士、高潔な人格という雰囲気でないことは間違いない。逆に大きな破れを持たれた方なのだろう。いわば破れからキリストの恵みが現れるのかもしれない。伝道の姿はそうではないか。めっきは簡単に剥げる。
私たちがキリスト者として生きている時に、つい判断を誤ることがひとつある。それは、私たちは、生きる時に何らかの判断をしなければならない時にこう考えてしまう。「これはいいことだ。これは悪いことだ」。「こうすることがいいことだ。こうすることは悪いことだ」。つまり善悪の判断をしながら生きることが、主イエスを意識して生きること、神を信じて生きることだと思い込んでいるのではないか。すると神は「善悪」の神なのである。ところが何がよいか、何が間違っているかということはキリスト者でなくても、誰しもしていることである。信仰がなくても、人間は善悪を判断するのである。しかし、キリスト者として生きるということは、これはよいことだ、これは悪いことだ、という判断で生きることではないとルターは言うのである。

今日の個所で、「大胆に」あるいは「大胆な態度で」と弟子たちの様子・振る舞いが伝えられている。作家の遠藤周作は、ここに新約聖書最大の謎がある、と言う。「あんなに弱虫だった弟子たちが、強虫になった。余程のことがなければ、こうはならない」。その余程のことを、彼は「復活」と呼ぶのである。「強虫」とは言いえて妙である。小さな虫けらであることに変わりはないのだが、強い虫けらになった。何もライオンや象のように勇猛果敢な大勇者になったという訳ではない。13節「二人が無学な普通の人であることを知って驚き」。見栄えが良い訳ではない、たくましい訳ではない。言葉も洗練された言い回しや、しゃれた話題を語るのでもない。朴訥で素朴な語り口であったろう。しかし彼らは、大胆に神の言葉を語ったのである。「大胆に」とは「恐れずに」、という意味ばかりでなく、「喜んで」あるいは「楽しそうに」または「何をもはばからずに」。「語りたくて語りたくてしょうがない」。彼らは言う、20節「引用」。

ここから知れることは、彼らは神からの言葉を頂いて、神の指し示すところを見、神が見ておられる場所、もの、神の事柄、神の見ておられる方向に目を向け、そこで見えたもの、聞いたものを語ったのである。善悪を判断して生きることが、信仰ではない。神の見ておられる方向に私もまた目を注ぐのである。今、神は世界のどこを見ておられるのだろうか。

外尾悦郎氏という彫刻家がいる。すでに十何年もスペイン・バルセロナのサグラダ・ファミリア聖堂の彫刻家として活動している。彼はこう言う。「ついに(サグラダ・ファミリア建築についての)資料がなくなったとき、いよいよ仕事を辞めなくてはいけない……と覚悟する時期がありました。その時、自分はこんなにも一所懸命ガウディを見ているのに、ガウディは私をこれっぽっちも見ていないことに気づいて。見ていないどころか、むしろきっと彼は他のところを見てせせら笑っているんですよ。そう考えた瞬間、「ガウディが違う場所を見ているなら、ガウディが見ている方向を見てみよう」と思ったんです。それまでガウディに誰よりも近づいていると自負していましたが、どうしてもガウディとの溝が埋まらないと感じていました。ところがガウディの見ている方向に目を向けたとき、スーッとガウディが自分の中に入ってきたんです」。
このガウディを「キリスト」に読み替えたらどうだろう。自分の抱えているこの今を。主イエスはどうみられるだろうか。今、私たちが置かれているこの世界のどこを、十字架の主は見ておられるだろうか。「見ておられる」というのは、ただ傍観しているのではない。そこに向かって歩んで行かれるのである。主が見たもう場所、そこに主がおられるのである。こんなに安心えきることがあろうか。こんなに御言葉の恵みが溢れる所があろうか。私たちも「大胆に」歩むのである。