6月10日花の日・子どもの日礼拝説教
「子供のように、神の国を」 ルカによる福音書18章15~18節
この国の礼拝の特色は、と聞かれたら、何と答えるだろうか。控えめ、家族的、暖かさ、質素、そのような雰囲気だろうか。そういう雰囲気を作り出すのに寄与するひとつのものがある。それは「生花」を飾ることである。それぞれの季節毎の花を、さりげなく小さく飾る。しかしそれがないと礼拝堂が何となく寂しい。この国の住人の、美意識の現われとも言えるし、それ以上に、主イエスのみ言葉、「野の花を見よ」が、私たちの心に生きて働いているからだろう。
かつて韓国の教会の礼拝に出席したことがある。8月15日独立記念日の礼拝であった。礼拝の後には、一同で国歌が斉唱された。牧師はあまり一生懸命には歌ってはいなかった。その教会の礎は、戦争前、ある日本人の1キリスト者が、自分の土地を寄付したことに始まると聞いた。日本のように講壇の横に、お花が生けられている。ところがこの国の飾花とは大分趣が違う。発泡スチロールで大きなオブジェ、朝鮮半島を象った彫刻が真ん中に据えられ、それに花が添えられているという、ある意味では現代美術品のような風情であった。その日が「独立記念日」であったからかもしれない。
今日は「花の日・子どもの日」である。アメリカの片田舎、今でも日曜日は商店はすべて休みで、各家では、玄関の鍵を掛けないという習慣が残っている、そういう地域のの教会では、6月になると前庭には花が咲き誇り、結婚式ではその美しい庭で、祝福のお茶会が催される。6月は一年中で花の最も多い季節である。ジューン・ブライドのいわれの起源も、ここにあるそうだ。その色とりどりのお花を、礼拝堂に沢山持ち込んで飾り、教会の子供たちを覚え、彼らの成長と献身を願い始められたのが、「花の日・子供の日」だという。アメリカで、1856年のことである。
今日はルカによる福音書18章からお話をする。「教師の友」の本日の聖書個所である。福音書が他の古代文学と異なる典型的な記述がここにある。子どもに照明が当てられ、それにまつわる主イエスの言葉や振る舞いが記され、伝えられている。現代では当たり前のように見える光景も、古代では異様な光景だったのである。古代では「子供」はもの同然であり、不完全な存在であり、必要なければ、ゴミ捨て場に捨てられる立場にあった。誰かが拾ってくれて、奴隷として養育してくれたらめっけものである。ひどい残酷な時代だと思うか。だが現代でも、この国で、繰り返し児童虐待の話題が伝えられるではないか。しかし幸運にも捨てられずに、育てられる子どもが、皆、大人になれるやけではない。七五三の風習の通り、幼児の死亡率は、非常に高い。まさに子供は、花のような存在であった。古の預言者が語ったように、「草は枯れ、花はしぼむ」のでる。ものの数にも入らない、はかなく小さい子供たちの姿が、鮮やかにしっかりと映し出されていることが、福音書の常識はずれともいうべき特徴なのである。即ちそれは、主イエスが、当時の常識をひっくり返すような方であったことの証だろう。
15節「引用」、人々が(恐らく母親たち)、赤ん坊を連れて主イエスの前にやってくる。祝福してもらうためである。この国でも、おすもうさんに抱っこしてもらうと、丈夫な子に育つ、という言い伝えがある。カリスマある人から、力(み守りと祝福)をいただこうというのである。生まれてきた命が、いつ何時、喪われるかもしれない。疫病で、災厄で、あるいは戦争で。だからせめて霊的に力ある方の祝福を受けることが出来れば、この子もまた元気に育つだろう。母親たちの、素朴で、切実な思いである。ところが弟子たちは、その無礼を叱った。「先生はお忙しい!」これも弟子たちの師を思う善意である。善意が神のみこころを損なうことがある。
そこで主は言われる。16節「引用」。「神の国は、子供たちのものだ」。この言葉に弟子たちはじめ、周りの大人たちは、驚愕したことだろう。当時のユダヤ人たちの合言葉は、「神の国のくびきを負う」であった。神の国のために、どれだけ苦労し重荷を負って、つらい思いをしたかで、努力したかで、神の国に入れるかどうかが決まる、と皆考えていた。ところが主イエスは「神の国は、子供たちのものだ、子供たちに無条件で与えられる」ときっぱりと言われる。神の国は、ただ神のみわざの表れだ。人間の思いや努力や計らいを超えている。ただ恵みとして与えられる。それを受け入れられるか。
ただこのパラグラフの最後のみ言葉は、難解である。17節「引用」。「子供のように神の国を受け入れる」。単純に読めば、「子供が素直に、心から神の国を受け入れるように、あなたがた大人も、素直に疑わずに受け入れる人で無ければ」と普通は理解される。しかし、もう一つの読み方は、「神の国を受け入れるように、子供を受け入れる人でなければ」。問題はあなたが、子供を受け入れることが出来るかどうかなのだ。子供を神の恵みの表れとして、教会の中心に置くことができるか、あなたの心に宝物のように宿すことができるか、と主イエスは問うのである。
聖書で、しばしば人は花に喩えられる。明日に萌え出て栄えるが、夕べにはしおれて枯れる。しかしはかない花の装いは、ソロモンの栄華に勝る、と主は教えられた。ひと茎の花に、そしてひとりの子供に、そうした神の貴い恵みが、注がれている。
沖縄のフリースクール「珊瑚舎」には、夜間中学が設置されている。そこの生徒は、皆、それぞれ事情があって若い頃、学校で学べなかったかつての子供たちである。その一人がこんな思いを綴っている。「小学5年生の時、遊び時間の校庭で事故にあい、股関節がダメになり満足に歩けなくなりました。金もなく保険制度もない時代です。まして事故の責任とか補償という考えもありませんでした。それ以来学校は終わりです。年をとっても勉強したい、基礎を学びたいという思いが渦巻いていました。心の中に成長していない少女のままの気持ちがいっぱい詰まっているのを感じます。5月は月桃の花の季節です。この花だけは戦争が終わってなにもない瓦礫(がれき)の中でも変わらず咲いていました。入学式のみんなの喜んでいる姿、弾んだ声がこの花と重なりました。花は小さいけど純白とピンクで、世間ずれしていない少女のようです。学校に通う道で、この花を見ると夜間中学校のみんなに似ているねぇ。同じ想(おも)いねーと思います」。
戦争の中でも、変わらず咲く花、そして今も変わらずに咲いている月桃の花。それと自分の足跡とを重ね合わせて語っている。戦争の中でも、学校に行けなかった少女の頃にも、そして年老いた今の自分の時にも、変わらずに咲いている月桃の花、それは神の恵み、働き、その表れものだろう。幼子の中に、神の恵みを見、その恵みを私も豊かにいただいていることを知る人に、主イエスははっきりと語られる。神の国は、その人のものだ。