「聖霊が告げた」使徒言行録13章1~12節

6月17日アジア・アフリカ礼拝説教
「聖霊が告げた」使徒言行録13章1~12節

皆さんは「端っこ」は好きだろうか。例えばケーキや海苔巻きの「端」の部分。端っこは、香ばしく味がなじんで美味しそうに見える。また他のところより、厚切りである。カステラを切り揃えてできた端の部分は、非常に安価に手に入る。「端カステラ」と言う。あるいは腰を下ろす席であるが、真ん中ではなく、隅や端の部分から埋まってゆくという現象がある。隠れていたい、目立ちたくない、自分の居場所、安全を確保したいという無意識の表れとも説明される。

今日、私たちは、「アジア・アフリカ礼拝」を守っている。礼拝後の集会として、吉弘姉からアフリカ、タンザニアでの活動の、現地報告をしていただくことになっている。「タンザニア」という国について、どのくらいのことを私たちは知っているだろうか。殆ど皆無ではないか。讃美歌21になってから、アジア・アフリカの賛美歌に触れ、歌うことが出来るようになったことは、喜ばしいことである。333番「主の復活ハレルヤ」は、タンザニア民謡である。この曲を歌うと、遥か彼方に住む私たちも、心に力が湧いてくるように感じられる。ミッション・スクールの生徒も、この歌が好きだという。しかし、その国について、知るところは少ない。今日の集会では、現地を直に体験されてきた方から、生きた情報が伝えられる。何と幸いなことだろうか。初代教会も、そのように主イエスと直に触れ合った弟子たちが、各地に点在した生まれたばかりの小さな教会を訪れ、直に見聞きしたことを伝えて、人々に力を与え、霊的な豊かさを分かち合って行ったのである。

さて今年3月8日~13日、世界教会協議会(WCC)主催の「世界宣教会議」が、アフリカのタンザニア、アルーシャで開催された。毎年、世界のあらゆる所、あらゆる国々や地域で、様々な形で活動しているクリスチャンワーカーが一同に会し、信仰と体験を分かち合い、現代の課題に共に歩もうとする象徴的なムーヴメントである。2010年には。ここ東京で開催された。「会議」というと、難しい顔をして、難しい議論をする会のように思われる。しかし、そこでは、6日の間に、研究発表や実践・活動報告と同時に、新しい礼拝・賛美の方法が試みられたり、歌えや踊れやの、国や言語を超えた分かち合いが為される。
この会議の背景には、2つの世界大戦の中で、教会が自分の国や教派のことにかまけて、全く教会が無力であったことへの、「悔恨と悔い改め」がある。教会はあまりに世界に目を向けていなかった。教会は自ら歩み出し、他の教会に出会い、お互いの胸襟を開いて、語り合い、祈りあい、賛美し、分かち合おう。そこから隔ての壁が壊されていくだろう。これは、今の私たちにもそっくり当てはまる。この国で、教会は確かに小さい。しかし、非力ではあっても、決して無力ではないことを、知るべきなのである。
タンザニア世界宣教会議宣言文には、こう記されている。
「2018年3月8-~13日、タンザニアのアルーシャで、WCC世界宣教会議が開催されました。さまざまなキリスト教の伝統のもとに、世界各地で福音宣教と伝道に従事する1000人以上の参加者が、一同に呼び集められたのです。
私たちは、アフリカの文脈や霊性から特別なインスピレーションを得て、この時代に、神の霊が生きて働き給うことを、喜び祝いました。 聖書研究、共同の祈りと礼拝、そして分かち合いによって、力づけられたのです。私たちは主イエス・キリストの生涯、十字架、そして復活を通してもたらされた神の国の証人として生きるのです」。

今回の会議の主題は「聖霊の働き:変容する弟子への招き」である。今も昔も、教会は「聖霊」の働きによって、大きく変化を与えられてきた。そこに招かれた人々、キリスト者も聖霊によって、導かれ変わっていく。聖霊が与える変化とは、何が変わるのか。どう変わるのか。勿論、人間が神になったり、超人に変わるわけではない。見ている所が変わり、歩むべき方向が、変わるのである。聖霊は、私たちに新しく、「見るべきところと方向」を示してくださるのである。
今日の聖書の個所、使徒言行録13章は、パウロの第1回伝道旅行の、そもそもの端緒を記すものである。パウロは生涯3回4回の大きな旅をしたことが、知られている。主イエスを宣教するための旅行である。物見遊山ではない、ローマ人の敷設した街道が、各地に整備されていたにしても、それ程交通手段が発達してわけでもなく、まして病気がちだった人間パウロにとって、それは決して楽な仕事では、なかったろう。 この困難な仕事は、どのように始められたのか。2節「引用」、ただ一言「聖霊が告げた」というのである。パウロの個人的意思や使命感、あるいはやる気や能力ではなくて、聖霊が教会に働き掛け、教会を揺り動かし、バルナバとパウロを押し出すようにさせた、というのである。主を礼拝し、断食を行う、教会の当たり前の務め、日々の生活の中で、聖霊は教会を絶えず変化をさせるように働き、教会を揺り動かすのだという。先ほどのアルーシャの宣言文でも、そのような聖霊の働きを強調しているのである、4節に「引用」、聖霊はふたりを送り出したとあるが、どこに向かってなのだろうか。アンティオキアは、初代教会の中で、最初の異邦人教会として建てられた教会であった。今のトルコ国内にあった。しかしまだそれ程の規模を有していたわけでない。しかし非力であっても、無力で内向きの教会ではない。聖霊によって外に歩み出す教会であったのだ。送り出された二人が、向かった先はどこか。セレウキア、キプロス、サラミス、パフォス、ピシディアと、彼らはトルコ周辺の地域に向かって、歩みを進めていくのである。「隅のほうに、端のほうに、周辺に向かって」、彼らは聖霊に押し出されるのである。聖霊の働きは、「隅に、端に、周辺に」なのである。

先ほどの宣言文はこう続く。「希望の黎明があるにもかかわらず、世界秩序を揺るがし、多くの人に苦しみを与えている「死の勢力」のことを考えなければなりません。 私たちは、世界的な金融システムのために、豊かな富の蓄積を見ることができました。それは、豊かさばかりでなく、多くの貧困をもたらすのです(イザヤ5:8)。 今日の戦争、紛争、生態学的荒廃、苦しみの多くの源ともなっています(テモテー6:10)。 この世界帝国主義的システムは、金融市場を現代の偶像に祀り上げました。 また、何百万もの人々を疎外し、虐げと搾取の状態に陥らせる支配と差別のあり方を強化しました。 私たちは、周辺に追いやられた人に、しわ寄せが重くのしかかっていることに注目しています。これらの問題は、2018年では目新しいことではありませんが、聖霊は今も働き続けておられ、個人にも、集団にも、変わることと、弟子としての変化を、私たちキリスト教共同体のコミュニティの一員である私たちに、たえず呼びかけています」。この宣言文のキーワードは、「周辺に追いやられた人々」。そこに注目し、そこに向かって歩むように、勧められていることである。
今の私たちにとっても、「周辺」は、この国のあり方を考えるための、キイ・ワードであろう。先日カンヌ国際映画賞で、最高賞を受賞した映画「万引き家族」の映画評の一節にこうあった。この映画は、祖母の年金と父子の万引で生計を立てる一家を描きながら格差社会と家族のあり方を問う。是枝監督は「社会の片隅に追いやられ、目を背けてしまいがちな人々をどう可視化するか」を常に考えてきたそうだ。問題なのは「目を背けている」点だろう。勝ちか負けか、白か黒か。極端な主張がはびこり、その賛否が社会を分断する中、対極の人々をあえて見ようとしない姿勢に映画は疑問を投げかける。あなたたちが目をそらす「不完全」さは、私たちの社会が生み出したものではないのか。

聖霊のみわざはまさに、私たちが目をそらす「周辺」に表されるのではないか。工藤直子氏の作品に「わからん」という詩がある。「わからん/手を のばしてみる/その手の 指さすむこうに/なにが あらわれるか……わからん/足を踏みだそうと 宙に浮かす/その足が 着地する世界は/わたしを どこに導くか……わからん/それが まったく わからんので/それが まったく わからんからこそ/まず 手をのばし 足を踏みだす/」。聖霊によって押し出され、送り出されたパウロの心境かもしれない。また、人生の根本で聖霊のよって、押し出される人生を送る、私たちの心かもしれない。しかし、押し出すのは、鬼でも悪魔でもない。ただ主イエスの現在である、聖霊の働きなのである。なれば、歩み出し、歩み通す力をも与えてくれるだろう。たとえ「わからん」でも「わからんからこそ、手を伸ばし、足を踏み出す」のである。