「命をうけるために」ヨハネによる福音書10章7-18節(2018.4.15)
以前、教会の家庭集会であるお宅に伺った所、壁に綺麗なタピストリーが飾られていた。イギリスのものだというが、牧場に羊が草を食んでいる長閑な風景が描かれていた。石垣が作られて「羊の囲い」もきちんと描かれている。ところが群れの羊の内、一匹の羊だけが、仰向けになって、手足を上に寝転がっている。この一匹のことで、話が盛り上がった。「のんきに昼寝をしているのだろう」「言うことを聞くものかと反抗しているのだろう」、「うれしくておどけているのだろう」、など等色々な意見が飛び交った。皆さんはどう思われるか。後で分かったのだが、その羊、実は「何かに驚き、パニックになった状態」らしいのである。人間なら立ち往生、羊はひっくり返るそうなのだ。そういう羊の習性を、たくみに描いている。やはり羊を良く知る人々の文化が反映している。ところが、羊がパニックを起こすと、たいへんらしい。そのまま放っておくと、体が硬直して悪くすると死んでしまうことがある。そこで羊飼いは、急いでかけていって、パニックを起こした羊の体全体をマッサージして、安心させるのだという。
羊という動物の特徴をよく伝える文章がある。羊たちが騒ぎ出した。両側の横道に駆け出すのがいる。見ていると人間をからかって楽しんでいるようである。そんな表情に見えたし、遠くまで逃げてしまうことはなかった。それでも羊飼いは大変であるあっちへこっちへ走り回って、ようやく道路へつれ戻した。今度は2頭が座り込んで動かない。でもその内に「仕方ないや」というような顔をして立ち上がった。ようやく元通りの隊列を作って歩き出した。「羊のように従順」というがほんとに従順なのだろうか、「振り」をしているだけじゃないのか、そんな気がした。一ついえることは、羊は、羊飼いがいなければ、生きていけないということである。羊飼いがいてくれるからこそ、気ままにもふるまえる。
今日の聖書個所は、ヨハネ福音書の中でもつとに良く知られている、「主イエスは良い羊飼い」の個所である。ヨハネ福音書の文体の特徴として、「わたしは~である」(エゴーエイミ)という表現が多用されることがしばしば注目される。この個所は「羊飼い」、他に「ぶどうの木」「道」「パン」など様々な事物に喩えられている。その中での最も強調されるのが「ことば(ロゴス)」である。ロゴスは全てを包含し集約しているともいえる。
「エゴーエイミ、私は~だ」。皆さんはご自分をどう言い表すだろうか。勿論、「名前」が真っ先に来るだろう。しかしそれ以外に自分をどう表現するか。自分が何者か。仕事があって、会社や組織に属してる間は、それが「私のエゴーエイミ」と言えるだろう。しかし定年退職したならどうなるのか。ある方が定年退職をした。今までしたいけどできなかったことを、何でもしたらいい、と思う。例えば、のんびりと昼間に散歩する。ところがそれもできない。近所の人に、何もしないでぶらぶらしているのを見られたくない。それどころか「散歩すると道に迷う」と言うので、理由を聞くと、朝暗いうちに出勤して帰宅も夜遅いので、明るいときに近所を歩いたことがないから。仕事上のつながりを失った後に、私のエゴーエイミは何が残るのだろうか。仕事、健康、お金、家、家族、友人、趣味、役割、私を創り、支えている具体的なものが、ひとつひとつ失われていく、というのが齢を重ねるということである。ならば、最後に残るもの、最後まで失われないものとは、何があるのだろう。
「わたしは良い羊飼い」と主イエスは言われる。「良い羊飼い」たるところは何か。今日の個所はそれを事細かに語りかけている。14節以下「引用」。「知る、声を聞く」が鍵語である。主は羊を知っている、羊の声を聞く。そして羊も主の声を聞き、主を知っている。確かに「良い関係」というものはこういうものだろう。「あなた」と「わたし」が一方通行でない。すれ違いでもない。「知って、知られて、聞いて、聞かれる」間柄、先ほど、気ままな羊の話をしたが、そのような羊飼いがいるからこそ、羊は気ままにもなれるのである。
「知って、知られて、聞いて、聞かれる」この関係が何から生まれるか、3節「羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出す」。これは家畜を飼って生活する者たちの、当たり前の風景だろう。この国でも、牛や馬を育てている飼い主は、自分の家畜に、「太郎・花子」等の名前をつけて、名前を呼んで世話をしているではないか。国はなぜか名前ではなく、番号でそこに住む人間を呼びたがる。番号で人間が呼ばれるのは、刑務所やら収容所というような場所なのだが。主は私たちを、名前で呼ぶと言われる。名が呼ばれる、それはかけがえのない存在として受け止められ、唯一無二の存在として呼びかけられることである。呼ぶから、誰でもよいから返事をしろというのではなく、ほかの誰でもない、あなたを呼んでいるのだと、名が呼ばれてはじめてそれが分かる。
復活の日の朝早く、空虚な墓の前で、立ち尽くしていたマリアに、主が彼女の名前を呼びかける。「マリア」。名前で呼ばれて、彼女は始めてそれと気づくのである。泣いていた彼女に、新しい力を与え、再び歩み出させるきっかけとなったのは、名前が呼ばれることであった。つまり名前を呼ばれるとは、主がいてくださる証、主に招かれているしるし主が共におられるしるしなのである。
さらに主イエスは「羊のために命を捨てる」と言われた。もちろんこれは主イエスの十字架を指し示す言葉である。主はあなたのために身を裂き、血を流されたことを覚え。しかしこの章句を大胆に訳せば、「あなたの命(人生)の終わりまで、羊(あなた)のためにずっと名を呼び続ける」と読むこともできる。
『夜と霧』著者、VEフランクルが、その著書の中で語っている。「最も良き人々は戻ってこなかった。119104という「番号」をもった囚人、私は自分が「通常の」囚人以上のものではなかったこと、119104号以外の何ものでもなかったことを、ささやかな誇りをもって述べたいと思う」。この言葉にフランクルの、本書に込められた思いの丈が込められているだろう。人間が名前でなく、単なる番号に置き換えられる時と場所、強制収容所、そしてそれを生み出だす戦争。戦争は最も良き人々、つまり子どもたち、女たち、年寄りたち、ハンデのある人たちの命を真っ先に奪う。最良の人々は帰ってこなかった。そういう場所で、もはや人間ではなく、番号に置き換えられた自分が、生き抜いた。それは自分が強い人間だとか、深い思索ができる人間だからとか、優秀な才能を持っていたからではない。フランクル、否、119104を支え生かしたものは、愛するもの、家族の幻であり、死ぬまで人間であることを貫いた仲間の姿であるし、ナチスの手先になって小ずるく立ち回っていたが、結局その人もガス室に引き出される、その時に、最後のパンのかけらを、最も弱い人の枕元に置いて立ち去る人に出会い、そういうぎりぎりのところで、そこでも名前を呼んでくださる主イエスの言葉を聞いていたからなのである。名前が呼ばれると、人間はそこに生きることができる。
羊は、羊飼いがいるからこそ、羊としてありのままにきることができる、生かされるのである。私たちも、主イエスがおられるから、私として生かされる。この週も、主の私を呼ばれる声に、しっかりと耳を傾けたい。