説教『あなたの帰るのを待つ神様』(ルカ13:1~9)

2014年11月30日             待降節・第1主日礼拝・説教要約
説教『あなたの帰るのを待つ神様』(ルカ13:1~9)

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◎11月最後の主の日を迎えています。今日から待降節・アドベントに入ります。アドベントとは「来る」
という意味の言葉です。既に来られたイエス様を救い主として新たに私達の心にお迎えするために、また再びこの世に来られる主イエスを持ち望むために熱き祈りをもって待降節の期間を過ごして参りましょう。
◎今日の御言葉はそのような待降節第1主日にふさわしい御言葉です。ルカ福音書13:1~9ですが、今日はここからイエス様が私達に何を求め、また、何をもたらしてくださったのかを心に深く受け止めて参りましょう。まず、冒頭の13:1には「ちょうどその時…」とあります。「その時」とは、その前の12章にあるように、イエス様が弟子と群衆に終わりの日の裁きについて語られていた「その時」ということです。
◎ちょうどその時、二つの大きなニュースが告げられます。一つは「ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」というニュースです。当時、ユダヤを支配していたローマ帝国の総督ピラトが部下に命じて神殿でいけにえを献げていたガリラヤ人を殺し、その血をいけにえに混ぜたと言うのです。ユダヤの北方にあったガリラヤ地方は主と弟子達の故郷ですが、ローマの支配に抵抗する人たちがいたようです。
恐らくピラトはそのような反逆者を捕えて殺害したのでしょう。そのようなショッキングなニュースが入ってきます。さらに、続いて「シロアムの塔が倒れて18人が亡くなった」というニュースが入ってきます。
都エルサレムにあったシロアムの池で何か工事をしていたのでしょう。工事用の塔が倒れて18人が亡くなったというのです。そのような二つの悲惨なニュースが主イエスと群衆がいたところに入ってきました。
◎そのニュースを聞いた人達はきっとこう思ったでしょう。「殺されたガリラヤ人もシロアムの塔の下敷きになった18人も不幸だ。しかし、そのような不幸に遭ったのは彼らが神に対して何か大きな罪を犯したからだろう。その罪を神は裁いて犠牲とされたのだ」と。そのように思ったのは止むを得なかったと思います。なぜなら、旧約聖書には「神の戒め・教えを守る者は神の祝福を受けるが、守らず、神に背く者は神の裁き・呪いを受ける」ことが繰り返し書かれているからです。そこから因果応報的な考え方がユダヤ人を支配しました。ヨハネ福音書9章で、生まれつき目の見えない人を見た弟子がイエス様に尋ねます。
「先生、この人が目の見えないのは両親が罪を犯したらからですか、本人が罪を犯したからですか」と。
これは典型的な因果応報の考え方ですが、この時も群衆はピラトに殺されたガリラヤ人もシロアムの塔の下敷きになった18人も神に対して罪を犯したから神様は彼らを裁き、犠牲とされたのだと思ったのです。
◎それに対して主イエスはこう言われました。「決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ皆、同じように滅びる」と。ここで主は犠牲となった者達が特別に罪深かったということはないと強く否定されます。因果応報的な考えを強く否定されるのです。これはヨハネ福音書9章で主が「この人の目が見えないのは本人が罪を犯したためでも両親が罪を犯したためでもない。神の御業が現れるためである」と言われた通りです。その上で主は「あなたがたも悔い改めなければ皆同じように滅びる」と言われます。これはどう理解したらいいのでしょうか。ここで重要なのは「悔い改める」の意味です。
これは元来「方向転換する」の意です。自己から神へ方向転換することを意味します。つまり、主は今こそ神に立ち帰れと言われているのです。そうでなければ「滅びる」と主は言われます。「滅びる」とは「見失われる」ことです。今こそ神に立ち帰らなければ神を見失い、本来の自分を見失ってしまうぞと警告しておられるのです。帰るべきところは神である。今こそ神に立ち帰れ、と主は呼びかけておられるのです。
◎しかし、私達はなかなか神様の所に帰って行こうとしません。神様の方を向き、神と共に生きて行こうとしません。そのいう私達を神様は忍耐強く待っておられること、また、主イエスが神に執り成してくださっていることを主はたとえ話で語られます。それが13:6~9です。「ある人がブドウ園にイチジクを植え、その実がなるのを期待し、3年間待ち続けられたが、実がつかなかった」。これは神が私達が神に帰って来るのを待っておられることを告げています。イチジクとは脇役を意味します。神は主役も脇役もなくすべての者が神に立ち帰り、それぞれの実をつけることを期待しておられるのです。しかし、なかなか実がつかないので遂に神様は切り倒すことを決意します。しかし、園丁は「今年もそのままにしておいてください。もう一年待ってください。私が木の周りを掘って肥しをやってみます」と主人に申し出ます。園丁とはイエス様です。主が実をつけない私達を神に執り成し、待つように頼むばかりか掘って肥しをやってみますと頼みます。主は私達に恵みを施し、神に立ち帰り、実をつけることを祈っておられるのです。