説教『空の鳥が宿る豊かな木』(ルカ13:10~22)

2014年12月7日                        待降節・第2主日礼拝・説教要約
説教『空の鳥が宿る豊かな木』(ルカ13:10~22)

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◎待降節第二主日を迎えました。先週の礼拝後、イルミネーションが取り付けられましたが、近所の人達が、夜、美しく輝く光景を見て「きれいだね」と言って通り過ぎて行かれます。この待降節、一人でも多くの方々がイエス様を救い主として迎えることができるように祈りながら過ごして参りたいと思います。
◎ さて、今日も聖書の御言葉からイエス様のメッセージを聴いて参りたいと思います。今日の箇所はルカ13:10~21です。最初に「癒しの記事」が、続いて「たとえ話」が記されています。今日は先ず、前半の「癒しの記事」を取り上げ、それが何を伝えようとしているのかを見ていき、続いて、後半の「たとえ話」を取り上げ、その意味と前半の「癒しの記事」がつながりを見て行き、最後に全体として何を伝えようとしているのかを見ていきたいと思います。まず、前半を見て行きましょう。13:10以下には、イエス様が安息日に、ある会堂で教えておられた時、18年間、病の霊にとりつかれ、腰が曲がったままの女性がいました。主はその女性を呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その手をその女性の上に置かれたところ、たちどころに腰が真っ直ぐになり、病から解放されて神を賛美したと言います。それを見た会堂長は、それを見て腹を立て、群衆に向かって「病人を癒すのは安息日にしてはならない。ほかの6日間にすべきだ」と言ったと言います。律法も教えていた会堂長からすれば、律法の規定を厳格に守るように人々に教えなければならなかったのです。だから彼は、群衆の方を向いて、律法を守るべきと言ってのです。
◎ところが、イエス様はこうおっしゃいました。「偽善者よ、あなたたちは安息日でも牛やろばを飼い葉桶から解いて水を飲ませに引いていくではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間、サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と。「アブラハムの娘」とは、創世記にアブラハムに向かって神が約束された言葉、「あなたは祝福の基となる。地上のすべての民はあなたによって祝福に入る」にあるように、神の祝福に入れられた世界のすべての人を指していると言えます。主は、安息日であっても牛やろばの縄を解くように神の祝福に入れられた病に縛られた女を病から解くのは当然ではないかと言うのです。ユダヤ教の指導者達が安息日の規定を守ることが神への信仰と見ていたのに対し、主は律法の奥に神の愛を見ておられた。主は、律法の本質は愛であり、その神の愛に応えるのが信仰だ考えておられました。指導者達は律法を守ること自体が信仰であると思っていましたから、律法の規定に違反する者を厳しく責め、批判し、裁きました。だから、会堂長も腹を立てたのです。本当なら18年間、病に苦しんで来た女性が癒されたのなら一緒に喜んでやるべきではなかったでしょか。会堂長は律法を守ること自体を大事に思っていましたから、いつの間にか最も大切な愛を失っていたのです。ここに会堂長が陥っていた罠がありました。律法主義にはこのような罠があるのです。
この会堂長は私達自身です。私達もまた、この世の様々な規定・約束・義務・常識・社会通念に縛られて、最も大切な愛を失っていることがあります。それが夫や妻、子どもや他者、自身を苦しめているのです。
◎そういう会堂長に向かって主はこうおっしゃいます。「この女は18年もの間、サタンに縛られていたのだ。安息日であってもその束縛から解いてやるべきではなかったのか」と。「病気が治る」は「病気から解放される」とも訳せます。主はこの女性を病から解放してくださいました。同時に律法に縛られた会堂長をもその縛りから解放しようとされていることが分かります。主は「あなたも束縛から解放されなさい」と優しく呼びかけておられるのです。主は会堂長に対して解放へと招いておられるのです。安息日とは本来、神の創造の業を喜び、救いに感謝し、祝福にあずかる日です。だからこそ安息日においてこそ、束縛から解放され、神を喜ぶべきなのです。その意味でこの癒しの出来事は二人の解放の出来事だと言えます。
◎ 続いて後半を見てみましょう。13:18~20には「からし種のたとえ話」「パン種のたとえ話」が語られています。小さなからし種が大きな木に成長し、空の鳥を宿すほど豊かになる話、わずかのパン種を入れると3サトン(39ℓ)の粉が大きく膨らむ話。これは何をたとえているのでしょう。ルカはこの「たとえ話」を病の癒しの話の後に持ってくることによって、主イエスの救いと恵みの出来事は最初は小さくても、やがて大きく豊かな木に育つことを告げています。「神の国」とは「神の支配」のことです。主イエスから始まった救いはやがて全世界に広がっていきました。小さな会堂で起こった救いの出来事が大きな木になったのです。それは私達一人一人の中でも大きく豊かな木に育っています。主によってもたらされた救いと恵み、命と愛は周囲へと広がっていきます。主の救いと恵みはやがて世界中へと広がっていくのです。