説教『主イエスの真の権威』(ルカ20:1~8)

2015年12月6日     アドベント(2)礼拝・説教要約
説教『主イエスの真の権威』(ルカ20:1~8)

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◎待降節・第2主日を迎えました。先ほど讃美歌230番を歌いました。歌詞に「備えよ、乙女ら、いざ灯火、高く掲げ、花婿、迎えよ」とあります。これはマタイ25章にあるたとえ話から来ています。油を用意し灯火を灯して花婿を迎えた乙女の話です。私達も神の恵みを受け、祈りの灯火を灯して主の到来を待ち望みたいと思います。先週は、奥原一宏兄を天に送りました。奥原兄は57歳の時に死に直面し、教会に導かれ、62歳の時に受洗されました。妻と共に同じ天国に行きたいとの願いがあったからです。人生の晩年、神の平安に導かれた兄の信仰の歩みから、神様は一つ一つ備え、最も良き時に信仰を与えられたことを教えられます。ご遺族の平安を祈ります。

◎さて、今日の御言葉はルカ福音書20:1~8です。前回は、主が都エルサレムを見て激しく泣かれたこと、また、 神殿から商人を追い出されたことを通して、主がいかに深く強く真の信仰と祈りを取り戻そうと決意しておられかを知らされました。今日はそれに続く箇所です。主の強い決意は、当時の宗教者とぶつかることになります。この後、論争記事が続きますが、論争を通して主の真実・真理が明らかにされていきます。今日は、「権威」を巡っての論争が描かれていますが、この論争を通して伝えられている大切なメッセージを聴いて参りましょう。

◎まず、その論争の経緯を見てみましょう。主が神殿の境内で人々に教えておられた時、祭司・律法学者・長老達がやってきて「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か」と主に問いかけます。神殿を管理する彼らからすると、神殿で自由に教え、振る舞い、多くの人々を集めている主に対して強い怒りが込み上げていたのでしょう。その前の19:47には彼らは主を殺そうと計っていたとありますから、彼らは主を捕えるために言葉尻を捕えようとしていたのかも知れません。彼らには主の振る舞いは我慢ならなかったのです。

◎ところが、主はその問いに対して、逆に彼らに問いかけます。「では、私も尋ねよう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、人からのものだったか」。彼らは「天からのものと言えば、なぜ、洗礼をうけなかったのと言うだろう。人からのものだと言えば、民衆に殺される」と相談し、結局、「分からない」と答えます。すると、主は「それなら、私も何の権威でしているか言うまい」と言って、彼らの問いかけを退けられたという話です。

◎この論争は何を伝えているのでしょうか。今日はここから2つのメッセージを読み取り、それをお伝えします。まず、第一に伝わってくるのは、主の前で、また、主の問いの前で人間の姿が明らかにされるということです。最初に祭司達は「何の権威でこのようなことをしているのか。誰が権威を与えたのか」と主に問いました。この問いの中には、彼らの縄張り意識が見られます。自分達こそ神に仕え、神殿に仕えている者である、神殿は神から自分達に委ねられている、そのような意識が強いからこそ主に怒り、問責したのでしょう。ここには、自分達こそ神に仕えているのだという思い上がった思い、傲慢な思いが感じられます。前回の話にあったように、彼らは神殿で商売をすることを許し、利益を得ていました。そのことを棚に上げて、主を批判し、主を殺そうと計る。ここには恐ろしいほどの人間の傲慢さ・自分勝手さが感じられます。真実な批判に耳を傾けようとはせず、それを押しつぶそうとする人間の醜い姿があります。これは21世紀の現代でも見られます。国民の声に一切、耳を傾けず、自分達の政策を一方的に押し通そうとする政治家達、企業の利益を最優先して労働者を酷使する経営者達、真理・真実・真の信仰よりも組織の教理・教義・規則・利益を第一とする宗教者達などの姿と重なります。

◎主イエスは、そのような宗教者達に対して逆に問われました。「ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのもの か」と。すると、彼らは天からのものと言えばこうなる、人からのものと言えばこうなると相談し、結局、答えませんでした。ここには、真実なもの・真理に対する誠意は見られません。ここにあるのは、自己保身のために人と世を見て、うまく立ち回ろうとする世俗的な生き方です。神の真理・真実を重んじるのではなく、真の正義・真実を重んじるのではなく、自分と組織を守ろうとする宗教者達の姿があります。これもまた、現代に見ることのできる姿です。そのように主の問いかけは人間の姿を赤裸々に現します。人間の罪を明らかにします。私達は、そのような主の前に、また、主の問いの前に自らを悔い改め、神・主の元に立ち帰るべきことを教えられます。

◎第二のメッセージは、主に与えられた権威とはどのような権威かということです。そのことは、ここにははっきりと書かれていません。しかし、その手掛かりはあります。それは「ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」という主の問いの中にあります。洗礼者ヨハネは天から送られた預言者であり、メシアが到来する前に悔い改めの洗礼を授けた人物です。主はそのヨハネから洗礼を受け、伝道を始められました。主イエスはヨハネが証言した通りメシア・救い主であることを福音書全体が証言しています。権威は神のみにあり、主イエスは、神の全権を受けた方であり、救い主であり、神の独り子であり、神であったことを福音書が告げています。罪人である私達は、低く謙虚になってその権威の元に愛と赦しを受け、主を仰ぎながら歩んで参りたいと思います。