説教『真の信仰と平和を回復するために』(ルカ19:41~48)

2015年11月29日     アドベント(1)礼拝・説教要約
説教『真の信仰と平和を回復するために』(ルカ19:41~48)

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◎昨日は教会のもちつき大会がありました。シオン幼稚園を初めとする多くの子ども達が参加して楽しく和やかな会となりました。収穫に感謝しつつ、教会の方や地域の方々とも親睦を深めることができたことを感謝します。さて、今日から待降節・アドベントに入ります。教会の暦では、今日から新しい1年が始まります。主の来臨を待望することから1年が始まるのは実に聖書の信仰を表しています。既に来たりて救いをもたらしてくださった主イエスの恵みに感謝すると共に、再臨の主を心から待ち望み、熱き祈りをもって待降節を過したいと思います。

◎今日取り上げる聖書の言葉、ルカ福音書19:41~48は、待降節にふさわしい御言葉だと言えます。ここには、主イエスがエルサレムの街を見て泣かれたという話、そして、神殿で商売をしている人達を追い出したという話が描かれています。今日は前半と後半に分けて、それぞれが伝えているメッセージを聴いていきたいと思います。

◎まず、前半、ルカ19:41~44を見て行きます。その冒頭にはこうあります、「エルサレムが近づき、都が見えた時、イエスはその都のために泣いて言われた」と。イエス様は、ある時、ご自分が天に上げられる時を感じ、エルサレムへと向かわれました。そして、長い旅を経てエルサレムに到着されると、喜んだのではなく、その姿を見て泣かれたと言います。この「泣いた」は「激しく泣いた、号泣された」とも訳せます。では、なぜ、主は激しく泣かれたのでしょうか。19:42~44にはこうあります。「もしこの日に、お前も平和の道をわきまえていたら…。しかし、今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、…お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。つまり、お前・エルサレムが平和の道をわきまえていたら滅びることはないのに、それが見えていない。このままだとやがて滅びるだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったらだというのです。エルサレムという町は、紀元前922年、ダビデ王の時に都と定められ、その次のソロモン王の時、紀元前950年に神殿が建てられます。それ以来、エルサレムは神の都・信仰の都と呼ばれてきました。しかし、ソロモン王の死後、王国は南北に分裂し、しかも王達は偶像を崇拝し、神から離れ、それぞれ滅びていきました。その後も、人々は神から離れ、信仰から遠ざかっていました。だからこそ、主は真の信仰の道・平和の道を築くためにエルサレムへと向かわれたのでした。「平和の道」とは神との和解と平和の道、神の平和の上に立った地上の平和の道です。その平和の道を築くために主は来られたのです。しかし、人々は主を受け入れず、十字架につけるだろう。そして、主を受け入れることなく、滅ぼされるだろう。その都の姿が主の目にはっきりと見えた。だから、主は激しく泣かれたのです。実際、エルサレムは、紀元70年、独立を求めるユダヤ人の反乱を鎮圧するためにローマ帝国によって徹底して滅ぼされたのでした。

◎このエルサレムとは、今日どの町を指すのでしょうか。東京か、パリか、ニューヨークか、町田か。その町々を訪ねられた主はきっと涙を流されるでしょう。その中に私も含まれています。主が平和の道を築くために尊い命を捧げてくださったのに、私達はそれを受け入れない。主は、そのような私たちのために涙を流しておられることを心に留めて、神に立ち帰り、主イエスが築いてくださった救いを受け入れ、愛と平和の道へと歩んで行かなければなりません。それが、主が求めておられることではないでしょうか。これが今日の第一のメッセージです。

◎この前半のメッセージは後半にも言えることです。後半の19:45~48を見てみましょう。ここには、主がエルサレムに入られた後、主は神殿に行き、そこで商売をしている人達を追い出したことが書かれています。時は、出エジプトを記念する過越しの祭りの時。多くのユダヤ人や外国人が国内外からエルサレムに押し寄せて、その神殿では商売が行われていました。マタイ福音書には、神殿に納めるために外国の貨幣をユダヤの貨幣に換える両替商や神殿に犠牲として捧げるための鳩を売る人などがいたことが書かれています。主は、その商売をしている人達の椅子や台をひっくり返し、商人たちを神殿から追い出されたのでした。しかし、なぜ、主はこのような激しい怒りを抱き、暴力的とも言える行動をなさったのでしょうか。その理由は19:46にはこうあります。「私の家は祈りの家でなければならない。ところが、あなた方はそれを強盗の巣にした」と。これは旧約の預言書からの引用ですが、私の家、つまり、神の家である神殿は祈りの家なのに、それを強盗の巣にしたからだ、というのです。主は神殿を祈りの家にするためにそうなれたのでした。エルサレムは、ソロモン王の時に7年の歳月と莫大な富と人材をかけて建てられました。その神殿が完成した時、ソロモン王が祈った祈りが列王記上8:27以下に記されていますが、神殿とは神への祈りを捧げる場所として建てられたのでした。「祈りの家」とはイザヤ56章にある言葉ですが、神殿とはずべての民が祈りを捧げる聖なる場所だったのです。ルカ18章には徴税人が神殿で捧げる祈りがありました。祈りとは神への心からの叫びです。主の怒りは腐敗した宗教者に向けられた怒りです。私達は、主の怒りと悲しみを心に覚えつつ、日々、悔い改め、主の平和の道へと歩まねばなりません。