説教『最後に遣わされた神の独り子』(ルカ20:9~19)

2015年12月13日     アドベント(3)礼拝・説教要約
説教『最後に遣わされた神の独り子』(ルカ20:9~19)

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◎待降節・第3主日を迎えました。先ほど、讃美歌236番「見張りの人よ」は、旅人と見張りの人が互いに呼びかけ合いながら救いの到来を待つ歌詞になっています。「この世はまだ暗いけれど、夜明けは近い。世の光である主イエスは近い、救いは近い」と結びます。待降節の日々、私達は主の到来を待ち望みつつ歩んで参りましょう。

◎さて、今日、取り上げる聖書の箇所は、ルカ20:9~19です。前回は、「何の権威でこんなことをするのか」という祭司たちの詰問に対して主がそれを見事に退けられた話でしたが、今日の話はそれに続く話です。今日の話を通して主イエスとはどのようなお方なのかを見て行きたいと思います。最初に前半部分の20:9~16を見て行きます。ここにはイエス様が語られた、たとえ話が記されています。ある人がブドウ園を作り、それを農夫達に貸して長い旅に出た。その主人は、収穫期になったので収穫を納めさせるために僕を農夫達の所に遣わしたが、農夫達はその僕を袋叩きにして追い出した。二度、三度と僕達を遣わしたが、同じ目にあった。それで主人は、息子なら敬うだろうと思って息子を遣わした。ところが、農夫達はブドウ園を得ようと息子を殺してしまった。すると主人は農夫達を殺しブドウ園を他の人達に貸すだろう。そのような話をイエス様がなさったというのです。

◎これは何を意味しているのでしょうか。これは、神様がイスラエルの民を苦難から救い出し、約束の地を与えるという恵みを与えたのに、イスラエルの民と指導者達はその神の恵みに対するお返しを何も神にせず神の恵みを独占してしまったこと、そして、悔い改めて神に立ち帰るようにと預言者達を次々に遣わして教えたのに、その言葉に耳を傾けず無視したこと、それで、神は神に立ち帰らせるために、その独り子である主イエスを遣わしたけれど、イスラエルの民と指導者達は主イエスを殺し、その恵みを独占することを予告したものと言えます。

◎このたとえ話が伝えていることは、神に選ばれ、特別な救いと恵みを受けてきたイスラエルの民とその指導者達が、神の救いと恵みを忘れ、その恵みを我が物にして独占してきた横暴・傲慢な生き方です。イスラエルの歴史は、アブラハム・イサク・ヤコブと続く父祖達の歩みの中から生まれました。その後、出エジプト、荒野の40年を経て、約束の地カナンへの定着とサウル・ダビデ・ソロモンによるイスラエル王国の建国と繁栄が続きます。しかし、王国の南北分裂後、それぞれの王達は偶像崇拝に走り、王国は滅亡します。バビロン捕囚と帰還の後は、ペルシャ・ギリシャ・ローマの大国に支配されましたが、真の信仰から離れていきました。その間、預言者達が遣わされましたが、民と指導者達は耳を貸さず、最後に遣わされた神の独り子・主イエスも十字架に架けて殺してしまいます。その信仰の歩みを振り返り、主は、神から離れて生きてきた民の傲慢を指摘しておられるのです。

◎しかし、この話はイスラエルの民だけの問題ではありません。私達人類の歩み、また、一人一人の人生の歩みにおいても言えることです。神の似姿に創造され、祝福された世界を守るようにとこの世を委ねられた人類は、私利私欲のために自然を壊し、環境を悪化させてきました。また、私達も神から与えられた体・頭・心・能力・才能を自分の私有物と思い込み、自分のためだけに用い、逆にまた、怠慢によって眠らせています。そういう私達に対して、神様は様々な声・気づきを与えておられるのに、その声を無視しその生き方を改めようとしません。

最後は、神の独り子を十字架に架けて殺してしまう。実に罪深いのが私達であり、人類の姿がそこにあります。

◎しかし、そのような罪深い私達によって捨てられたイエス様ご自身が、私達が新たに生きて行く土台・基礎・礎になられたことを予告しておられます。20:17以下の後半部分にはそのことがはっきりと語られています。「家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石になった」と語られています。これは詩編118編からの引用です。「捨てられるべき無益な私を神は救い出し、家の隅の親石にしてくださった」との意味をもつ御言葉を引用して、十字架に架かって殺され、捨てられる私こそ、あなたがたが生きて行く土台・基礎・礎になると宣言しておられるのです。殺される主は私達の罪を赦すだけでなく、私達が生きて行く土台となってくださるというのです。しかも20:18では、主が人を生かしも滅ぼしもする決定的な裁き主でもあることを自ら語っておられるのです。

◎今日、私達は、主イエスが語られたブドウ園お農夫のたとえ話を通して2つのメッセージを聴くことができます。 第一は、私達人間の罪の深さです。私達は、神様から多くの恵みを受けていますが、その恵みは神からの預かり ものです。身体・頭・心・能力・才能、それらはすべて神から与えられたもの、神から預かったものです。それなのに私達はそれらを自分の私有物にし、私利私欲のために用い、何も神に返さずに独占しています。私達は、そのことに気が付き、自らを深く悔い改めて、受けた恵みに対してお返ししなければならない。そう思います。

◎第二のメッセージは、それほど自分勝手に、自己中心的に生きている罪深い私達を救い出すために、イエス様は、 十字架に架かってくださった。そして、私達が生きて行く土台・基礎・礎になってくださるのです。何という恵み、何という赦し、何という愛でしょうか。使徒4:12にあるように、主イエスこそ私達の救いの石なのです。