祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書6章27~38節

聖書の学問は、非常にち密で、み言葉の一字一句にわたり、すでに詳細に考究されている。学者は他の人の言っていないことを、何とか探し出して主張するから、勢い他とは異なる主張をすることになる。だから学者の間で意見の一致が見られることは、めずらしい。ところが百家争鳴の趣のある新約学の中で、現在、ほぼ誰もが認める理論に、「二資料説」と呼ばれる「仮説」がある。

これは、主イエスの公生涯を記した「福音書」の材料が、元々二種類あった、という推定である。ひとつは最初の福音書記者、マルコが用いた伝承である。もう一つは、マタイとルカに共通して見出される伝承群で、学者の間では「Q」、と呼ばれる資料である。今日の聖書個所は、マタイにも並行記事あるが、マルコにはない伝承である。そしてその内容は、いわゆる譬えとか病気の人の癒しというような物語ではなく、「教え」あるいは「語録」のような体裁の言葉集である。

ここから学者は、初代教会の早い時期から、主イエスの「語録集」のような書物が作られ、諸教会で読まれていたのではないか、と想像するのである。マタイとルカの並行記事を比較すると、使われている単語や文章の構成も、ほぼ共通したものが認められるからである。そしてその「Q」と呼ばれる語録集の中でも、非常に有名な文言が語られている個所でもある。

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」。しばしば冒頭の言葉だけが、独り歩きして様々に論じられる。「敵を愛せ」。この言葉に近似した文言は、旧約の箴言24章21節に記されている。パウロも引用している有名なみ言葉である。「あなたを憎む者が飢えていればパンを与えよ/渇いているなら水を飲ませよ」。箴言の方がより具体的である。ところが決定的な違いは、その後にこの言葉が続く「こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む」。嫌いな人から、憎む人から、却って非常に親切にされる。ひどいことをされるのではなく、好いことで遇される。それはまるで頭に炭火を積まれるようなもので、薄気味悪く、不可解で、却っていたたまれない、たまらない気持ち(炭火:恥)になるだろう。旧約聖書の人間関係論だが、こういう論理が語られることは、それだけイスラエル人が、回りの人間との人間関係作りに苦労したかが伺えるのである。

ところが、主イエスの言葉には、「頭に炭火を積む」という付加的な文言は付け加えられていない。もっとも「神の報い」が語れるから、その大いなる報いを期待して、常に行動せよ、という教えだと理解することもできるだろう。他人の顔色ばかりうかがって、忖度して、自分の利益を誘導しようと言うのはさもしい精神であるし、そんな忖度して気を遣うのも、いい加減疲れるであろう。

「敵を愛し、憎む者を親切にせよ」。表面的にこの文言を受け止める人は、「敵を愛する」、そんな「馬鹿げた」あるいは「崇高な」ことは、果たして人間にできるのか、という疑問を抱く。確かに人間はエゴイズムの塊である。自分さえよければ、一番かわいいのは自分だ、とうそぶく。そしてこのように自分を顧みない愛の行動を、「偽善だ」と切り捨てる。実際、何も愛の行動をしないのと、偽善であれ偽りであれ、他の人のために何か身を削り、命を削ることは、意味がある。人間は「喜ばれる喜び」に非常に弱いのである。

20数年前に阪神淡路大震災が起こった。その被災地からこの国のボランティア活動の隆盛が始まった。それまではこの国の人間は、ボランティアという価値観がない、他人の困窮に無関心な冷たい人間だと考えられていたふしがある。そうではなかった。ボランティアとは何か、どうしたらいいのか、が分からなかっただけである。今では当たり前のように多くの人々がボランティアに身を乗り出している。

ところが現在の不幸は、大雨の災害で、ボランティアなしには復旧は難しいのに、志ある人が現場に入れない、という現実があることである。コロナ禍は、折角ボランティアの志を持っている人を、現場に行けないように阻害し足止めする働きをしている。他所から見知らぬ人が来ることで、コロナ感染が危惧される、来ないでください、というのである。人と人とを結びつける、絆を創る、それがボランティアの一番の宝である。その一番のものを、コロナは疎外するのである。なんといやらしい災厄であろうか。

このみ言葉の真実は、実は、人間に「実行できるかできないか」、を問いかけるものではない。この言葉には根源的に矛盾がある。どういうことか。そもそも「愛せる」なら、その人はもはや「敵」ではない。「親切にできる」なら、その人はもはや「憎むべき人」ではない。つまり主イエスの言いたいことは、「敵」とか「憎むべき者」という考え自体が、ナンセンスだと言っているのである。国と国、政治、経済、スポーツの世界でも、人間の社会ではとかく「敵」が設定されるのである。今回のコロナ禍でも、ある知事が「諸悪の根源、東京」という台詞を語った。これは本音がぽろっと出たのだろうと言われるが、恐らく違う。人間は「仮想敵」を提示して、人の目を違う方向に向けさせて、物事の一番の本質を隠そうとするのである。人間の心を操るには、「敵」の存在を語り、強調し、そこに今の自分たちの苦境があることを主張するのである。すると人間は、向こう三軒両隣、ただの起きて半畳寝て一畳、長く生きても人生100年の生き物を、不倶戴天の敵だとか憎むべき者とか、思い込むようになる。敵は殺して構わない、憎むべき者は、抹殺せざるべからず、となる。

作家の大江健三郎氏が引用した次の言葉がある。ある著名な米国詩人の言葉と聞く。「求めるなら助けは来る/しかし決して君の知らなかった仕方で」。人生とは何によって救われるか分からない、というのである。つまり神の目から見れば、人間自身が設ける勝手な区分、その最たるものである「敵」など、問題にはされない。誰が敵で、誰が味方か等、問題にもならない。それは主イエスの十字架で、最も明らかにされたことである。「神の救い」は人間の「勝手な区分」にはよらない。敵をもって、人間を救おうとされることもある。今回のコロナが、そういう敵かどうかは、不明である。それもまた何らかの神の救いの道標になるやもしれぬ。今、しばらくの時が必要であろう。