祈祷会・聖書の学び イザヤ書15章1~16章5節

誰か他の人に文句や苦言を呈するのは、結構難しい。相手を怒らせないで、心を閉ざさせないで、こちらの言いたいことを伝えるには、随分な熟練のスキルが必要である。関西の人が「考えとく」と答えたなら、それは「考えない、する気がない」ということであり、「行けたら行く」という時には、「行かない」という拒絶を、婉曲に表現した言い回しだと説明される。そのまま「No」と言ったら角が立つ、含みを持たせることが、人間関係の潤滑剤なのだという。確かに外国に行って、「No」と返事をされると、いささかぎくりとさせられる。

これが個人同士の問題にとどまらず、政治の世界、国と国との関係になると、事態は複雑となる。悪くすれば国際問題、紛争の種となりかねない。そこでこんな文章に出会った。

 

国際間の外交では、相手を非難することも出てきます。ニュースなどで「遺憾の意を表明した」なんて表現がよく使われますが、これはどの程度の非難なのでしょうか。今回は、外交プロトコル(儀礼)による「非難の表現」についてです。「外交」は独自の世界で、儀典上の表現というのが決まっています。これを一般的に「外交プロトコル」といいます。例えば、外国から要人が来た際にはどのように迎えるか、服はどのようにすべきか、などは外交プロトコルで決まっているのです。「非難の表現」も外交プロトコルで決められているのです。「非難」の度合いが強い順番に並べると下のようになります。外交プロトコルによる非難の表現の程度:「断固として非難する>非難する>極めて遺憾>遺憾>深く憂慮する>憂慮する>強く懸念する>懸念する」、の順(出典:エキサイトニュース)。

 

つまり国際間では「非難」や「苦言」もまた「儀礼」の範疇なのだということである。このような儀礼的な言葉に何の効果があるか、と批判する向きはあるだろうが、言葉によって生き、日々の営みをし、関係を築くのも人間であるから、「聞く耳のある者は聞くがよい」という主イエスの言葉が、ここにも響いているのであろう。

大方の預言書には、「諸外国預言」と称される預言の言葉が残されている。イスラエル・ユダヤを取り巻く諸国への、「裁き」が語られている部分である。今日のイザヤ書では、「モアブへの託宣」が告げられている。モアブは、死海を挟んでユダの反対側、死海の西岸に面した国である。ユダにとって最も近隣の国、と言ってもいい。近くにあるから昔から非常に緊密な関係を持ってきた歴史がある。

しかし、近くにあるから、身近な存在だから、自然と仲良くできる、いい関係を保ちながら生きてい行けるというものでもない。近親憎悪といって、近いからかえって対立し、身近だから却って関係の修復が困難になる、というのは私たちの一般の経験である。少しばかり隣家の木の枝が伸びて、自分の敷地内に入り込んだ、地境をこえて物を置かれた、など些細なことで、対立の種となる。当事者にとっては「たかがそれほどのこと」でも、「重大事」なのである。ユダとモアブの関係は、ちょうどそんな状態である。些細なことが積み重なり、相手に対しての怒りが鬱積する。それは直接の相手のふるまいによるというよりは、自分の心のかたくなさに起因することが多い。心のガス抜きが必要なのである。

「諸外国預言」は、新年の神殿祭儀の場でなされた、という推定がある。初詣に多くの人々が集まる中、祭司がヤーウェ神との契約の更新を祈願し、民への祝福を祈る。さらに国の安泰と平安とを祈念するために、預言者が「諸外国預言」を口にする。神の言葉をもって、周辺の国々を呪い、その勢力を撓め、武力の矛先を鈍らせようという算段である。言葉そのものに霊力があると信じられた古代の観念が、そこには反映している。周囲の国々の没落は、自国の安寧維持の保障となるから、人々はこの呪いの預言を聞くときに、心に祝賀の思いを湧き起らせたであろう。

現代でもこうした精神性は息づいている。いろいろ物議を醸したかの国の大統領であるが、彼は「自国第一主義」のスピーチを繰り返し、他国の不正によって、自国に利益が大きく損なわれていること、それに強く対抗する政策推進をぶち上げ、人々に強くアッピールした。それによって留飲を下げた人々も多くいたのである。極端な物言いによって、聞く人の心を高揚させ、カタルシス効果を狙ってのことである。近年、かの国の歴代の大統領は皆、海外派兵をおこなったが、この様々に物議をかもした御仁は、任期中にそれをしなかった。これをどう考えるか。

旧約の時代も同じである。実際、戦争となったら、勝っても負けても、その代償は重い。だから国を統括する王にとっては、本音としては、できるだけ実際の戦闘は避けたい。しかし同時に、周辺諸国からの圧力や恫喝は跳ね返したい。最も慮るのは、自国の国民の意識である。愛想をつかされたら、人心は掌握できない。そこでヴァーチャルな戦争、つまり言葉による攻撃によって、実際の戦争を回避しつつ、人心をなだめる方策が、「諸外国預言」なのである。他の国々が滅び、自国だけが高く上げられる、「一富士二鷹三茄子」、正月くらいせめていい夢が見たいではないか。

但し、神の言葉はブーメラン性を持つ。語る者、語る側自身が、神の御心に叶わず、傲慢にふるまったなら、神はイスラエルをも、諸外国と同じに裁かれるであろう。即ち、預言は、まず自らの在り方を鋭く問うものなのである。「我々はモアブが傲慢に語るのを聞いた。甚だしく高ぶり、誇り傲慢で驕っていた。その自慢話はでたらめであった」。しかしこれは、モアブだけの問題ではなく、ユダもまた同じであるし、アメリカもこの国も、まったく時代は変わっても、同じことが問われているのである。

すぐ近隣にあるために、何かと軋みを立てがちであったユダとモアブだが、歴史を通じて様々な交わりを保ち、相互に依存して来た歩みがある。そもそもそこは、ダビデの曽祖母ルツの祖国である、と聖書には記される。つまり、モアブなくしては、国としてのイスラエルもなく、ダビデも、王国もないのである。