祈祷会・聖書の学び エゼキエル書36章22~28節

看護師らに笑顔が少ないと嘆く高齢の病院長。笑いのある病院にしようと、院内で趣味の落語の独演会を開くが、迷惑がって誰も来ない…。創作落語「寄席外来」は院長と患者らのやりとりが軽妙で笑いを誘う。立川らく朝さんの語り口が滑らかだったのは、医師から落語家になった人だからだろう。46歳で立川志らくさんに弟子入り。還暦すぎの6年前、真打ちに昇進する。病気の予防法などを交えた健康落語を開拓してきた(5月13日付「天風録」)。

医師でありつつ、プロの落語家となった立川らく朝こと福沢恒利氏、落語家を志した理由を、次のように語っている。「大学病院勤務というのはとにかく忙しい。休みもなければ、24時間、仕事に追われまくってほかのことは何も考えられない。そんな状態がずいぶん長く続いたんです。酔っ払うとね、『なんで俺は落語をやらないのか』と自分を責める心の声が聞こえるようになって、それが次第に大きくなり、しまいには『落語やれよ』としきりに耳元でささやくようになっていったんです。蓋をして自分では見ないふりを決め込んでいても、心の奥ではずっとくすぶっていたんですね。そんなときに、立川志らく師匠の主催する『らく塾』という落語好きが集まる月1回の研究会に出会いまして…。1年後、気づいたら『弟子にしてください』と直訴していました」。

「自分を責める心の声が聞こえるようになって」、落語家を志したというのは、何か「落語」そのもののような気もする。とにかく、自分の「生きた心」から出て来る「生の声」には、抗い難いものがあるだろう。

さて、今日の聖書個所は、エゼキエル書である。紀元前587年に聖書の国、南王国ユダはバビロニア帝国によって滅亡し、王国の主だった人々はバビロンに虜囚として連行され、異国での生活を余儀なくされる。いわゆる「バビロン捕囚」である。この期間に、バビロンで暮らすユダの人々を励まし支えた預言者が、エゼキエルであった。彼は元々祭司であり、捕囚民の長老たちから相談を受ける存在であったことから、おそらく祭司の家系の出自であっただろう。おそらく前597年、最初のバビロン捕囚において、強制移住させられた者の一人であると推測されている。

今日の個所は、26節「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に、新しい霊を置く」と告げられ、さらに27節「わたしの霊をお前たちの中に置く」という言葉があることから、聖霊降臨日の前後に読まれるべき聖書日課とされて来た。捕囚の憂き目を見たイスラエルの人々、祖国を失い、神殿を破壊され、異教の都に捕らわれている身の上を、初代教会の人々も深く共感したのではなかろうか。主イエスを十字架で奪われ、復活の主イエスと再会する喜びを味わったものの、やがて主は神のみもとに戻られるべく、昇天されたのである。復活の主イエスとの別離、もはや再臨の時まで主イエスのお姿を見ることができないことは、さらなる喪失感をもたらしたことだろう。捕囚の民も、大きな喪失感を味わいながら、生きていたのである。そこに「主の霊が置かれる」と預言者は告げる。

これらの節では、「心」という用語がキーワードとなっている。この用語は正確に訳せば「心臓(レーブ)」を指す言葉である。もちろん「臓器」そのものではなく、「心」と訳されているように、比喩的な意味で用いられていることは言うまでもない。但し、「レーブ」の第一義的意味は、「感情」や「情緒」ではなく、「理性」あるいは「理解力」のことである。つまり旧約において、「心の働き」とは、「理解する」こと、「悟る」ことなのである。確かに、日本語の「心」という言葉は、「知性、感情、意志」等、すべての精神の働きを意味しているが、どちらかといえば、「感情」に重きが置かれるように思われる。しかしヘブル語の「レーブ」は、むしろ「知性」と「意志」の働きと強くかかわるのである。

すると「石の心」、「肉の心」という表現も、違った意味合いが見えて来るのではないか。普通「石の心」と言えば、冷たく、愛がない、無関心で無慈悲な心情を連想させる。他方、「肉の心」とは、血の通った、温かで、愛があふれ、他者の悲しみや苦しみに共感する心情を著わしているように思える。しかし、「心」が情緒ではなく、理解という色彩が強いのならば、「石の心」とは、理解力が鈍く、悟ることのない、偏狭で頑なな認識を意味しており、「肉の心」とは、血が通って生き生きした発想力、柔らかな思考力で、広々とした視野を持っている、という意味になるだろう。

つまりここでエゼキエルは、捕囚された民が狭量な思考に陥っていることを指摘し、そこから解き放たれることを告げているのである。それでは「狭量な思考」とは、何を指すのであろうか。捕囚された人々は、祖国を失い、神殿を喪失したことは、自分たちの罪ゆえであることを深く自覚していた。その報いとしての「バビロン捕囚」であり、もはや自分たちは、神からいたく罰せられ、放って置かれていると感じたのである。もはや神は我々を顧みられることなく、異教の地に捨てられ、まったく無視されているのだと。

「神は自分たちに無関心である」、これが彼らの「偏狭」さであった。これに対してエゼキエルは不思議な言葉を語る。22節「イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う」。神の「聖なる名」を汚した。これがイスラエルの罪である。イスラエルは神ヤーウェの救いと栄光を、すべての国の人々に告げ知らせるために、選ばれたのである。しかしイスラエルはその務めをないがしろにして、自らの栄光を追い求めた。そしてその結末として、ついに滅亡が訪れたのである。

しかし今、神は「わが聖なる名のために(救いのみわざを)行う」というのである。神の民が悔い改めたから、善い行いをするようになったから、もはや罪を犯さないようになったから、神は人々を救われる、というのではない。神は、神のみ名にもとるような行いはなさらない。たとえ人間たちが、相変わらず罪や過ちを繰り返したとしても、神は救いのみわざを放棄するようなことはなさらい。なぜなら神は「聖」だからである。「聖」とは、聖書の神の一番の特質を表す表現であるが、「区別された、隔絶した」という意味の言葉である。人間の狭い料簡では、決して捕らえることのできないものが、神のみこころである。そのみこころの深さや大きさにのみ、私たちの救いの根源がある。今も、「あなたの心に考える神は小さすぎる」、とかの預言者に言われているのではないか。