「わたしたちの言葉で」使徒言行録2章1~11節

祝ペンテコステ。私たちひとり一人に誕生日があるように、教会にも誕生日がある。世界で最初の教会の誕生を祝う祝日が、今日のペンテコステ、「聖霊降臨日」である。今日の聖書の個所には、その時の有様がつぶさに伝えられているが、主イエスの弟子達ばかりでなく、たまたまその近くに居合わせた、諸外国から来た、行きずりの人々をも巻き込む、派手で奔放な出来事だったことが分かる。ここで様々な人々の声が、にぎやかに錯綜し、うねりのように沸き起こっていることが知れる。そういう喜びのペンテコステの出来事を記念する礼拝に、皆が共に集まることができないで、それぞれの場所で持たれる。何となくさみしい思いがするが、しかし、教会は「エクレシア」、神の呼びかけによって、再び集められる群れという意味であるから、まもなくまた主が呼び集めてくださる、その祈りや希望の内に、今日のペンテコステを祝いたいと思う。

さて、ある精神科の医師(泉谷閑示)が、「テレビで流れる国会中継や謝罪会見を見ていて発せられる言葉が、心に響かない。『意味』が伴っているように感じられないのだ」という。少し発言を紹介しよう。「最近のニュースをにぎわしているさまざまなスキャンダルやハラスメント等の報道を見るにつけ、そこに共通する、ある種の『不気味さ』を感じることが多い。同じような感想を持っている人は、案外少なくないのではないか。記者会見などのやり取りを見ていると、何か以前とは質的に違う『言葉の通じなさ』が認められるように思う。表面上は、質問に対する応答は一応成されてはいるし、謝罪の言葉も繰り返されている。しかし、そこで発せられた言葉からは、本来込められているはずの『意味』が伝わってこないのだ」。

「意味が伝わってこない、言葉が通じない」とこの医師は語る。皆さんはどう感じられるか。かつて読んだ、木下順二氏の手になる戯曲『夕鶴』を思い出す。その作中のクライマックスが、次の個所である。与ひょうが、助けた鶴の化身である「つう」に言う。「あのなあ、今度はなあ、前の二枚分も三枚分もの金で」。お前の織ったきれいな布で、しこたま金を儲けたいんだという。するとつうは叫ぶ「わからない。あんたの言うことがなんにもわからない。さっきの人たちとおんなじだわ。口の動くのが見えるだけ。声が聞こえるだけ。だけど何を言ってるんだか……ああ、あんたは、あんたが、とうとうあんたがあの人たちのことばを、あたしにわからない世界のことばを話しだした」。

この作品は1949年1月に公にされており、すぐに舞台で上演された。敗戦後、まだ5年も経ていない時代である。この国の復興への歩みが、まだ緒がついたかつかないかの時である。その時にすでにこのような台詞が語られているのである。「意味が伝わってこない、言葉が通じない」、これは人間にとって、最も根源的で普遍的で、そして深刻な問題なのかもしれない。

今日の聖書個所、教会の誕生の有様を伝える物語は、旧約の有名なある物語を強く意識して語られていると言われる。歴史家であるルカの慧眼が、生き生きと反映されていると評される。旧約のその物語とは、「バベルの塔」である。「全地は同じ言葉、同じ発音であった」という昔々のこと、人々は「我々は高い塔を建てて、天の頂に届かせ、全地に散るのを免れよう」と話し合い、高塔を建て始める。この高慢な企てを見られた神は、「彼らの言葉を乱し(バベル)、互いの言葉が聞き分けられぬように」され、その結果、人間たちは全地に散らされることになった。お互いの言葉が聞き分けられない宿命(さだめ)ゆえに、人間はちりじりばらばらとなり、別れて住み、ついに争い合うようになった、という物語である。

ルカは、当時の人々が慣れ親しんでいた旧約の有名な物語を思い起こしつつ、かつての「散らされる民」が、数多の時を経て、今や「集められる民」となったことを、告げているのである。神は古に、人間たちをその罪のゆえに世界に散らされた。そして世界は、散らされた人々によって、乱れ争う場所となった。この世のすべての紛争や抗争の根源にあるものとは、「お互いの言葉が聞き分けられない」ことによるのであると。

この昔の物語を、世界の人々の「不和」の根源と認識し、かつて乱された「言葉」を、今、何とか回復したいと試みた奇特な人々もいたのである。例えば、L.L. Zamenhof (ザメンホフ) という ユダヤ系のポーランド人の眼科医は、幼少のころより身近なところに起る民族差別に心をいため、これを何とかしようという考えから、 持ち前の語学の才能を生かして、非常に習得しやすい文法を持った人工言語を編み出した。現在、その言語は「エスペラント」と称されているが、実はこれ、この言語の創始者ザメンホフ氏のペンネームであり、「希望に生きる者」という意味なのだという。今もこの言語を習得し、この言葉によってコミュニケーションを試みようとする多くの人々がいる。あるいは現在、英語が国際的な共通言語であり、それをもって人間関係を築く公用語としている人もさらに数多い。しかし、残念ながら、未だに私たちは、恒久的な平和を手にしているとはいえない。否、却ってグローバル社会の進展が、人間と人間との間の溝を深めているような趣すらある。

しかし神は、人間たちを世界に散らされたまま、捨て置かれたのではなかった。時満ちて、キリストをこの散らされた世界に遣わし、失われた羊たちを再び集めようとされたのである。そのためにはひとつの言葉が回復されねばならない。そして、かつて乱された言葉が、神の聖霊、キリストの霊によって回復されたのである。その成就がペンテコステの出来事であり、それは即ち「エクレシア」(再び集められた群れ)の誕生であった。

2節「突然、激しい風が吹いてい来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ひとり一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。ここで「ほかの国々の言葉」と訳されている言葉であるが、「国々」の語はなく、「ほかの」と訳される語も、「異なる」とか「今までと違う」というような意味合いで、「大胆に」「大ぴらに」と理解した方が良い用語である。閉じこもり、押し黙って、沈黙していた人々が、大きく口を開いて、語り始めた、というようなニュアンスであろうか。

するとその弟子たちのスピーチを聞いていた、様々な国や地方からやって来ていた人々の反応が興味深い。「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて」、さらに「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。様々な出身、出自の人々が、弟子たちが告げる言葉を、「故郷の言葉」そして「わたしたちの言葉」と言い表していることに注目したい。

皆さんにとって、「故郷の言葉」とか「わたしたちの言葉」と呼びうるのは、どういう「ことば」なのだろうか。同じ国に生きていても「発せられる言葉が、心に響かない。『意味』が伴っているように感じられない」と言われる時代である。こういう事柄によって考えるのはどうか。

「私らみたいに役にたたんものは大きな袋にいれて、海の中にドボーンと放ってくれたらいいんじゃ…そうしておくれ、お願いじゃから…」。故郷に住む働き者だった母親は、80代半ばを過ぎて寝たきりになると、娘にそんなことを言ったという。子どもに迷惑をかけたくない一心からだったのだろう。私がこの娘さんだったら、この言葉にどのように応答するだろうか。確かにこんなことを言われたら、困惑するし、人の気持ちも知らないでと嘆きばかりか、怒りもわいてくるだろう。娘は母親の小さな手をやさしくさすりながらこう語ったという。「お母さん、あんたのお母さんがそうしてくれ、と言ったら、あんた、そうしたかね」。老母はしばらく考えて「出来んなあ…出来ん」。「そうじゃろ、私も出来んのよ。お母さんは私ら育てるために充分働いたんじゃから…もう、ゆっくり休んだらええのよ」。娘がそう言うと、母親は家族の看護をありがたく受けるようになったという。女優の沢村貞子氏のエッセーに出てくる話である。

「故郷の言葉」とか「わたしたちの言葉」は、どこの国の言葉とか、お国言葉や方言とかいう言葉ではないだろう。「心に響く、わたしの魂とひとつになっている」ことばのことだろう。「エリエリレマサバクタニ」ということばの中に、「空の鳥を見よ、野の花を見よ」、ということばの中に、「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」ということばの中に、わたしたちは「故郷の言葉」、「わたしたちの言葉」を聴き取るのである。主イエスがほんとうに私たちと一つになって、生きて下さっている。ここにペンテコステの出来事の真があるだろう。