今年も残り僅かの日数となった。歳末恒例の話題として、「今年の重大ニュース」が伝えられるが、この国のある音響メーカー(リオン)が、この年末時期に「2025年心に残った音」の調査結果を発表している。曰く「世の中には様々な 『音』 が存在している。そして『音』と『記憶に残る出来事』が密接に結びついていることは少なくない。同社は、音を科学する企業として、多くの人たちが1年を象徴する印象深い音を共有していることに着目し、2011年から毎年『心に残った音』について調査を実施している」とその趣旨を伝えている。
調査結果、その一位「女性初の首相誕生、国会に響き渡った拍手と歓声」、二位「日本人選手が導いた大リーグ二連覇の達成、スタジアムに響き渡った大歓声」、このような「今年の音」を記憶に残った「音」として挙げている。もっともな気もするが、世間の人々の「福音」、即ち「喜びの音信」としての「音」とは言えるであろう。皆さんならどのような「音」を今年の「音」として記憶に残しているだろうか。
しかしこの「十の音」の中に、「熊の目撃相次ぐ、罠にかかった熊の唸り声や住宅街に響いた発砲音」や「紛争地域における爆発音」がランクインされ、さらに「戦後80年、各地で響いた平和への祈りの鐘」という答えも挙げられていた。「喜ばしい音」ではなく「不安や心配」の音、さらには「平和の祈りの鐘」という答えの中には、私たちの国の平和が、これからも続いてゆくのか、もしかしたら戦後この方、何はともあれ続いて来たこの状態が、破綻するかもしれない、という心配を越えた危惧を抱える人が多いことに、注目させられる。
「熊」出没の脅威にしても、野生動物の被害への怖れに対して、どういう手を打てるのか、人を怖れず、人間の生命に大きな危害をもたらす(不埒な存在)なら、駆除や排除は当然、という一方的な見方もあるだろうが、ただ「熊がかわいそう」という感傷的な思いではなく、自然というもの、野生の存在にどう人間が関わって行ったら、ほんとうに私たち自身が生き延びることになるのか、「自然への態度や姿勢」という視点も必要だろう。自然に対して自分たちの思うがままを貫いたら、何が待っているのか。邪魔な者は排除し、脅威は駆逐し、圧力は跳ね返す、しかし、それだけが対処の仕方ではないだろう。果たしてそこで人間はどんな知恵を見出せるのか。
今日の聖書個所は、マタイによる福音書のクリスマス物語である。おなじみ「東からの博士たち」がエルサレムにやって来る。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。これを聞いてヘロデ王は「不安」を抱いた、という。ヘロデばかりかエルサレムの人々も皆、同様であった、という。この章句について、なぜ「ヘロデ王が不安を抱いたか」について、しばしばこのように説明される、「ヘロデは、自分の他にユダヤ人の王(僭主)が生まれたと聞いて、自らの地位が脅かされると感じて、不安になった」。権力を持つ者、それが強い絶対的な権力であればあるほど、自分の地位に固執し、対する脅威には敏感になるから、不安も募る。確かにヘロデは慎重な性格で、策略に長けていた。ローマ帝国皇帝の懐に巧みに取り入り、ユダヤの王としての地位を盤石なものとしていたという。但し、イドマヤ出身なので、純粋なユダヤ人ではなかったから、そのあたりの所にも、周到に気を配った。ユダヤ教への最大限の敬意の表明として、40年もの年月をかけて、エルサレム神殿を改築したのである。地中海から高価な大理石を運ばせ、神殿の壁をすべてこれで覆い、金のモールで装ったというのである。これでエルサレム神殿は、近隣の諸外国にも評判の名所となり、数多の異教徒も参拝する一大観光地ともなったのである。異国者風情が、と木で鼻をくくったような態度とは裏腹に、ユダヤ人とても悪い気はしなかったであろう。そして民を過剰に刺激しないよう、ユダヤの絶大の権力者でありながら、神殿に対しては、不敬のそしりを受けないようにいつも身を慎んでいたのである。
その絶対の権力者が、「不安」を感じている。その原因は、東方の博士たちがもたらした情報、「ユダヤ人の王の誕生」、しかも「星が現われたから」というまるで「あてにならないような」情報なのである。そして、考えてみれば、たかが「赤ん坊の誕生」である。生まれたばかりの赤児が、剣を携え持って自分を暗殺に来るとか、テロやクーデタを起こすとか、まさかありえないだろう。それなのにヘロデは「不安」でたまらないのである。
さらに注目するのは、「エルサレムの人々も同様であった」と伝えられていることである。ヘロデばかりか、エルサレムの住民の不安を、皆さんはどう考えるか。ヘロデあってのユダヤである。その利権にひっついて甘い汁を吸っていた輩も多かろう。但し、ヘロデが倒れたところで、同じような権力者が自分たちの前に立つだろう。また同じように与すればいい。大方の市井の人々は、利害は絡むが、「不安や心配」という心情ではないだろう。
「わたしたちは『空気』に支配されている――」、山本七平氏が日本社会の非合理的な意思決定を「空気」の仕業だと説いたのは、すでに40年以上も昔の話である。多くの人が戦争の体験を生生と記憶にとどめていた時代に、山本氏はこの怪物が無謀な戦争を引き起こし、現代もこの怪物は生きていると指摘した。その怪物とは、実は「不安」という姓、「心配」という名、そして「思い煩い」という素性を持つ妖怪ではないだろうか、と洞察するのである。
ヘロデは、この不安に突き動かされ、生まれたばかりの幼子を殺害しようとする。東方の博士たちを泳がせ、しばらく様子を伺い、正確な情報を収集したうえで、早急にしかるべき手を打つ。今も昔も国家とか権力とかが用いる手法は変わらない。そして出し抜かれた時には、そこいら一体に武力攻撃を仕掛ける。しかし敵とは言うものの、実は、本当の相手は、得体のしれない「不安」なのである。山本氏が言ったように、それは「空気」みたいなものだ、本体は見えないのである。いったいその不安の根はどこにあるのか。主イエスは「明日のことを思い煩うな」と言われた。この言葉の理解には誤解があるように思う。「明日のことを考えるな」というのではない。
「明日は明日の風が吹く」という諺がある。皆さんはこれをどういう意味として受け取っているか。本来のニュアンスは「明日になったら状況(風向き)も変わり良くなるだろう」という希望的な観測ではない。明日にはまた明日の、つまり別の悩みや困難が待っている(際限がない)。だから人間は心配しながら明日のことを考え、思い悩む。しかし本当の問題は「煩う」ことなのである。明日が心配で、不安で、たまらなくなってしまう。不安に呑み込まれてしまうことなのである。そしてその「不安」が生まれて来る源泉はどこにあるのか。実は己の「死」から生まれて来る。人間は絶えず「死に脅かされている」存在だから不安になる。そして神の言葉は、私たちにその現実を突きつけるのである。不安を生み出すその根本現実とはなにか。ヘロデも、エルサレムの人々も、抱いている「不安」の根は、実に「死」からもたらされてくるものである。何をしたところで、何年生きたところで、どのような評判を得、家族が友人たちに恵まれたところで、あらゆるもの、すべてを引きはがして、知られざるどこかに連れてゆくのが、「死」なのである。「熊」の恐ろしさも、野生の脅威的能力もさりながら、実はその真ん中に「死」が顔をのぞかせているからである。
「熊の脅威」に対してこういう新聞記事が報じられている。「神奈川県の温泉地、湯河原町の一角で10頭ほどのヤギが放牧されていた。眼下に住宅地が広がる高台で、気持ちよさそうにヤギが草を食べる『牧場』を、10月に取材で訪れた。管理の難しくなった土地で、人に代わって、放し飼いにしたヤギに除草を担ってもらい、省力化などの有効性を探る事業に取り組むのは東京都のベンチャー企業『むじょう』、葬祭関連からスタートした事業は今、人口減少時代でいかに充実した形で地域を縮小させていくかをテーマに、多くの研究や実践を重ねている。ヤギによる除草もその一つだ。この事業は将来、各地で被害が急増するクマ対策の一助になるかもしれない。耕作放棄地の増加や里山の荒廃を食い止めたいとの思いがあるからだ。『クマの問題は、田畑に手を入れなくなって雑草が生い茂り、山と人のすみかが地続きになっていることで起こる』と」(11月30日付「明窓」)。
草食獣のヤギが、熊の脅威を緩和する途を開くかもしれない。いわば「別の道」である。聖書は神の備える道が、「別の道」であることが、ここかしこに語られているのは興味深い。出エジプトの物語で、奴隷の地を導き出されたイスラエルの人々が、後ろからエジプトの大軍が攻めて来るのを見て、「エジプトに帰ろう、奴隷のままでよい」と「元の道」を求めるのに、神は海の中に「別の道」を開き、人々を導かれるのである。今日のクリスマス物語もそうである。ヘロデ王やエルサレムの人々の不安、そして当の博士たちもまたエルサレムで途方に暮れる中に、新たな星の光によって幼子の所に導かれた。そうして飼い葉桶のみ子に出会い、その後に「別の道を通って」帰って行ったと言うのである。その道は実に「夢で天使が告げる言葉」によって示されるのである。神の道は、「別の道」、人間の思いでは、「夢物語」のように見える道である。しかし教会はそのような道を歩んで、歩まされて、今に至るのである。新しい年を迎える。ここにもまた「別の道」が備えられるだろう。共に祈りつつ、励まし合いつつ、神の備える「別の道」を歩みたい。