「御心を行う人が」コロサイの信徒へ手紙3章18~4章1節

子ども達は、今、夏休みの真っ最中だが、昨年に続いて、旅行にプールに、と自由気ままにとはいかない、「巣ごもり」の日々を過ごさざるを得ないのは、気の毒なことだ。そんな夏休みの家庭の風景を切り取ったのだろう、歌人の俵万智氏の作品、「親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト」。夏休み、家にいればいたで、三度のご飯をはじめいろいろ、子どもの世話をしなければならない。しかし、子どもは、畑のトマトみたいなものだ、勝手に伸びて、たくさんの実を付け、こちらの都合などお構いなしに、いつのまにか赤く熟し、成長して行く。それはそれでやっかいなことだ。子どもには楽しさいっぱいの夏休みも、親からすればかなり大変だったのだろうと気付くのは、自分が親になってから。

こういうメッセージがある。「私は親に弟の障害を隠すなと言われて育ってきましたが、亡くなった今は名前を絶対に公表しないでほしいと言われています。この国には優生思想的な風潮が根強くありますし、全ての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません。加害者に似た思想を心の奥底に秘めた人や、このような事件の時だけ注目して心ないことを言ってくる人も少なからずいるでしょう。家族は弟と生きるために強くなるしかありませんでした。その力の源をある日突然にあまりにも残虐な方法で奪われてしまったのです」。2016年8月6日の午後、東京大学先端科学技術研究センターホールで「津久井やまゆり園」で亡くなった方たちを追悼する集会が開かれた際に、読み上げられた被害者家族からの言葉である。家庭というもの、そこに共に生きている家族というものが、何によって支えられているか。何がひとり一人の人間を繋ぎとめているのか、何が人間を生かしている本当の力なのか、さまざまに問いを突き付けて来ることばであろう。

今日はコロサイ書から話をする。今日の個所は「家庭訓」と呼ばれるテキストである。同じような家庭への訓戒が、エフェソ、ペトロの手紙等、新約の中で、最も後の時代に書かれた書物群に見いだせる。紀元1世紀末の教会の中で、議論の中心として語られていた事柄が伝承の下地になっているのだろう。それで「家、家庭」という問題が、紀元1世紀の教会の重要な課題であったことが分かるのである。ヘレニズムの世界では、「家庭訓」、つまり家庭の秩序を教え、その成員ひとり一人に守るべき約束事を告知することが、家々の習慣であったという。いわゆる世間から教会が問われたのであろう。「家、家庭」について、教会はどう考えるのか。

初代教会、最初そこに集った人々は、終末的希望に生きていた。まもなく世界は終りを迎える、再び復活の主が来たり、神の国が完成する。その時にはこの世の秩序のすべてが無くなってしまう。だから神の国以外の世俗のことで、あれこれ、心を使い、思い煩うのは罪だと考えたのである。家、家族もまた同様で、一人ひとりが、てんでんこに自分の救いを達成しなければならない危急の時だ、というのである。

しかしやがて時代が移り、終末の遅延が語られるようになった。神はすべての人が悔い改めるように、ひととき終末を猶予してくださっている。聞いて信じるかどうかはともかく、この世のすべての人が福音を耳にするまでは、神は忍耐し待っていてくださっているのだ。すると、今度は日常の生きる場「家、家庭」がクローズアップされるのである。初代教会の人々にとっては、真の家、真実の家庭は「教会」であった。教会に集う人々がこそが、家族、神の家族であった。それならば世俗の家庭、家とは一体どういう意味を持つのか、その問いへの応答が、今日のテキストなのである。

今日の私たちからすれば、ここに語られる文言はどういう質のものであろうか。後半は「奴隷たち」への教えが記されている。奴隷制度を当然視していて、これに対する批判は此処にはない。奴隷は生かさず殺さず、徹底的にこき使われ、搾取されたかというと、それ程単純ではない。そもそも奴隷は高価なのである。主人の性格によりけりだが、賢い主人は、一人ひとりの奴隷の能力や資質を鋭く見抜き、有効に用いようとしたのである。人間を賢く働かせようとするなら、脅しだけでは駄目である。奴隷の中には主人の右腕として、家の興隆や繁栄にすこぶる功績があった者もいた。そして主人はその努力にきちんとした形で報いたのである。

最初の訓戒「妻たちよ、夫たちよ」、「仕えなさい、つらく当るな」、これらの言葉は、今の私たちにも、実際の事柄として迫ってくる。ただ素直に聞けるだろうか。結婚式の時に、この個所が読まれることも多いが、この個所の「妻と夫」を入れ替えて、2回読むという牧師もいる。

この個所で、最も考えさせられるのは、親子の関係についてだろう。子に対しては「どんなことに対しても、両親に従いなさい」。「両親に従え」というみ言葉を、今の子どもたちはどう聞くだろうか。面白いのは、最初は「両親」となっていて、次には「父親よ」という勧告が来ている。やはり親の問題は、父親がらみである場合が多いということか。「子どもをいらいらさせるな」。この言葉は、絶妙である。いらいらさせないことが、子育てのポイントだと教えている。なぜなら次の言葉「いじけるといけない」とは「勇気を失う」「気落ちする」。「いらいら」とははっきりしない、優柔不断などっちつかずな態度によって引き起こされる。そして、それは子どもから生きる勇気を奪うのだというのである。

いやはやどれも尤もな仰せであるが、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われると、いささか難儀な訓戒である。ただ、この家庭訓が、当時のヘレニズムの常識と異なっているのは、妻や子どもや奴隷ばかりでなく(つまり弱く、従う立場の者たちとみなされていた者たちだけでなく)、夫、父親、主人という上の強い立場の者に対しても、同じように心得を語っていることである。しかし、最も異なるのは、「主にあって、主にふさわしく、主に喜ばれるために、主を畏れつつ」という言葉が必ず付け加えられていることである。「家庭」という最も基本的な人間の生きる場で、夫と妻、親と子、主人と奴隷という人間関係は、ただこの二者によって、成り立つのではないことが強調されていることである。家庭の中の人間関係も、ただそこにいる人間だけでは、健やかな関係は営めない。人間だけでは必ず破たんするということである。だから、み言葉はこう語る。23節「引用」主に対するように、人間と人間のつながりの根本に「主がおられ」その絆によって、結ばれているということなのである。それは祈りであるし、とりなしであるし、ゆるしであるし、叱責もあるだろうが、根本に、主の働きを、主の慈しみ、憐れみを求めるしか、その絆は保たれないのである。

英語の「Home」を日本語に訳した人は、内村鑑三である。彼は家庭についてこう発言している。「家庭とは、神より受けた者がその愛を相互に交換する所であります。これはそれゆえに教会の一種であります。ただ家庭にありては、愛が少数者の間に限られるのと、霊魂の愛に加うるに肉体の天然自然の愛をもってするの差違があるまでであります。教会を縮めたものが家庭でありまして、これをひろげたものが国家であります。家庭は国家の基本であると言いまするのは、これは国家の単位であり、また縮画であり、また小模範であるからであります。愛は発動的のものでありまして、これは外から打ち込むことのできるものでなく、また命令をもって引き出すことのできるものではありません」。

「毎年、慰霊の日に糸満市にある平和の礎を訪ねている。沖縄戦で犠牲になった曾祖父母の刻銘をなぞり花を手向ける。人柄や戦前の暮らしを想像すると安らかな気持ちになる。平和の礎の「追加刻銘板」には今年、新たに41人の氏名が刻まれた。県内の50代男性は家系図の制作中に、平和の礎に名前のない親戚に気付いた。他の親戚の証言を基に刻銘を申請し今年実現した。生きた証しを残したいという家族の思いを感じた」ある沖縄に住む方の言葉である。一度もまみえたことのない家族の「人柄や戦前の暮らしを想像すると安らかな気持ちになる」。それはひとり一人の人生に、生命に、主が深く手を伸ばし、関わっていてくださるからである。どんな生命も、人間の勝手は判断で打ち込んだり、命令をもって引き出すことはできない。