幼い時、何をして遊んだだろうか。皆さんは子ども時代に、泥遊び、粘土遊びをした記憶があるだろう。子どもは泥んこが好きである。幼児教育に携っている初瀬基樹氏が、こういう文章を記している。なぜこんなにも子どもたちは水や土、砂、どろんこが好きなのでしょうか?こうした素材は子どもの働きかけに対して、容易に変形したり、元に戻したりすることができます。こうした素材を難しい言葉で「可塑性(かそせい)が高い」といいます。乳幼児期には特にこうした可塑性の高い素材に触れて遊ぶことが大切とされています。水や砂、土、どれをとっても、ひとつの素材だけでも様々に形を変えるので、子どもたちにとって不思議で面白いものなのですが、それらを混ぜ合わせることにより、しかも、それぞれの量を加減することによって固さや感触が変わるので、それによってさらに子どもたちの興味が掻き立てられ、積極的な活動が引き起こされます。どの年齢の子どもであっても、自分のイメージに合わせて遊ぶことが出来る素材でもあります。崩したり、作ったりを繰り返す中で、想像力(思い描く)や創造力(工夫してつくりだす)、集中力、忍耐力などを養う基礎を身に付けていると考えられます。
「自己肯定感」を育てるためにも役立つのだそうです。高垣忠一郎さんという方が小学校2年生を対象に行った調査において、自己肯定感の高い子どもたちの多くは「どろあそびやままごとやごっこあそびを夢中になってやった」「あそびのことで、ともだちとけんかした」あるいは「新しい遊びを考えたり、今までの遊びをつくりかえたりした」体験を持っているのだそうです。「夢中になって遊ぶ」という体験が自己肯定感を育んでいくのでしょう。
この国の古代遺跡からは、一万五千年前に遡る土器の破片が発掘されている。世界でも最古の土器に属するという。聖書の世界メソポタミアの遺跡からは七~八千年前のものが発掘されている。人間と土との結びつきは、実に古くに遡る。身の回りにいくらでもある土を、さまざまに利用し、生活のために用いてきたことは、当然としても、子どもが土遊びに夢中になるというのも、人間には、土の恩恵によって成り立つ生活の体験が、深く刻印されているからではなかろうか。
今日の聖書個所は、旧約聖書の人間観を物語る有名な個所である。創世記1章の末尾には、これまた有名な聖書の人間観、「神のかたち」が語られるが、それよりも500年程前に遡る伝承だと、聖書学者たちは考えている。「神は土の塵によって、人を形づくり」と記される。「土の塵」とは何か、と中高生に尋ねると、「部屋の隅にあるふわっとした埃のこと」と答える者が多い。「では人間はゴミからできたのか」と返すと、苦笑する。「土の塵」とは地面の表面の細かく軽い土、即ち「粘土」のことである。土の器を作るように、人間は捏ねた粘土によって形造られた、という考え方は、聖書の世界、メソポタミアにはあまねく伝わる伝承であり、そればかりでなく、世界の様々な神話伝説で、おなじみの話である。土偶や埴輪のように、リアルに人の形を映して、造形するということも、世界各地に伝わる風習である。それ程、土は人間にとってありふれた、最も身近な存在なのである。さらに聖書の人々は、土の色と自分たちの肌の色が非常に似通っているのを思い、そのお湯に連想をしたとも伝えられる。
ところで、何のために人間は造られたのか、メソポタミアの神話によれば、神々が人間を作った訳は、自分たちの代わりに食べ物を作らせ、神々が楽をするためであった、という理由を語っている。丁度、人間が自らつらい労働しなくてよいように、古くは奴隷を買い、こき使い、現代では機械に単純労働の肩代わりをさせるようなものである。挙句の果て、考えることや判断することも、もうコンピュータにお任せ、の観がある。しかし手抜きをすれば、その付けはいつか必ず回って来るのではないか。
ところが聖書は、何のために人間が造られたのか、その訳については、明確には語っていないのである。裸で暮らせるような楽園であるエデン園に置かれ、食べるに良い木の実をふんだんに生えさせ、一つだけの例外はあるにせよ、どれでもいくらでも食べて良い、と許可を出し、さらに「人がひとりでいるのは良くない」と助ける者、傍らに立つ者、パートナーをも備えたというのである。至れり尽くせりである。
但し、何不足なく、必要なものが与えられ、苦労いらずの安心、安全の楽園生活なのだが、それで人間は本当に満足し、充ち足りるのか、何もしないで良い、何もする必要はない、ゆるゆると寛いで、ゆっくりとしていてください、と言われるのは確かに快適だが、それで人間本当に満足するのだろうか。
あるホスピスに務める看護師の方が言われていた。「ここでは患者さんの望むことができるように、できるだけのサポートを心掛けています。でもこうしたい、ああしたいという本当に自分の望みが見つからない人が多いのです」。確かに病が重くなれば、行動や生き方に制約が生じる。それでも安楽、快適がそのまま、充実や充足へと繋がらないのである。何か自分らしいこと、自分の望むことをすることで、何らかの役割を果たすことで、人間は生きているという実感を持てるらしい。それが充足を生む。だからその看護師は、患者さんに粘土遊びを勧めことも多いという。
聖書もまた、そういう人間の現実を良く見抜いている。すべてが揃っている楽園においても、人間にひとつの務めが与えられるのである。15節「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。「土を耕す」という役割を神から命じられるのである。しかしこれは単に農耕に勤しみ、食料を生産するという目的ではない。人間の食べる物は、園の中に実る諸々の果実である。その他なおも食料を自給するまでもない。では何のために耕すのか。
アダムという名の意味は、「アダマー」つまり「土」から来ている。人は神によって土から形づくられた。すると比ゆ的に言えば、人間にとって「土を耕す」とは、自分自身を耕す、開墾する、ということに他ならない。ここに人間が働くことの意味が、聖書的な意味が、見事に示されている。仕事にはいろいろあるだろう。人間は勝手に仕事の内容や質で、上下つけたり、金銭で価値を定めたりするだろう。しかしどんな仕事も働きも、「自らを耕す」ことにつながっているのである。
「自らを耕す」とはどういうことか。人は土を耕し、土を手にし、土に触れる時、実は自分を形づくった神のみこころに触れるのではないか。神がどのような思いで、ひとり一人の人間を形づくったか、形づくられた人間の存在を喜ばれたか。御子をこの世に送り、独り子を十字架に付けてまで、愛してくださったことを、人は土を手にすることで、思い起こすのではないか。
あるキリスト者のお母さんが、こう記している。時間の使い方が一変したのは、結婚して子育てが始まってからです。静かに座って聖書を読むような、自分のための時間はなくなってしまい、「そんな時間があったら眠りたい」、それが正直な気持ちでした。一時期、身も心も育児に疲れてしまったことがあります。叱る時につい手が出てしまい、後悔しては泣くことの繰り返しでした。
ある日のこと、目を離している隙に、いつの間にか子供たちが泥んこ遊びに夢中になって、信じられないほどに服が汚れています。普段の私なら、泣くか叱るかです。でも、なぜかその日は、私も一緒になって遊んでみたんです。泥だらけの手を子供に見せながら、「気持ちいいね」という思ってもみない言葉が、笑いと一緒に私の口から出ました。「神様、私は少し疲れました。元気が欲しいです」と、取り繕わないで神様と会話するように過ごす。そんな時間の使い方が、今の私の目標です。成長途中の子供はもちろん、私も未完成です。息子たちも私も、神様の御手の中で、粘土細工みたいにこねて揉まれて形づくられる、神様の作品なんだと、最近は思えてきました。子供は今も泥んこ遊びが大好きで、時間を忘れてこねています。終わるのを待ちくたびれた時、ふと私という作品の完成を待っていてくださる神様の愛を感じて、顔を上にあげる、これも私の祈りの時間です。