先日、市内の教会の献堂式に出席した。教会の建物が完工し、新しい会堂を神に献げる礼拝は、どこの教会の献堂式でも感慨深いものがある。こと教会に関して言えば、資金が有り余る中から造られるというケースは、皆無といってよいだろう。とある教会では、建築家が費用の計算をして、どう算盤を弾いても「屋根を造作する費用」がどうしても足りない。ならば「雨の時は、出席者は傘をさして礼拝をしたらどうか」と教会員に提案しようか、と考えたほどであったという。それでもその教会堂が完成した暁には、「青空天井」ではなかったそうである。ないナイ尽くしで、どこからどう考えても、「資金的に無理なんだい」、というような無理難題の中、教会堂が建てられる、これは「隅の頭石」ではないが、「わたしたちの目には不思議に見える」のである。
献堂式に参列したその教会は、そもそものルーツを「バプテスト教会」に持つ。だからこれまで歴代の会堂には、「バプテストリー(洗礼槽)」が備えられていた。三代目の新会堂もその伝統を踏襲して、洗礼槽が設けられている。教会堂というものは、単なる建物ではなく、その教会の神学が反映されるものである。それをどこに設置するか、何度も設計者とひざを交えて議論がなされたことだろう。三代目の会堂の洗礼槽は、牧師が毎週説教をするための講壇の直下に設けられている。床が開閉式になっており、それを開くとバプテストリーが出現するという仕様である。み言葉とバプテスマがひとつに結ばれていることを、さらにみ言葉がバプテスマに支えられていることを、比喩的に示しているかのように受け止められた次第である。
さて、今日の聖書個所は、主イエスご自身の「受洗」を伝えるテキストである。キリスト者であるとは、一般に「バプテスマ(洗礼)」を受けた者と理解されている。もっとも、教会によって、牧師が洗礼志願者に、頭に水を垂らし行う「滴礼」と、全身を水に浸す「浸礼」という形式の違いはあっても、「主にあって」バプテスマを受けることには変わりはない。ところが身体を水に浸して入信の儀礼とすることは、キリスト教の専売特許ではないのである。エルサレム神殿では、異教徒のユダヤ教改宗儀礼として、身体に水を注いで清める儀式が行われていたし、そもそも主イエスが受けられたのは、ヨハネがヨルダン川で行っていた「罪の悔い改めのバプテスマ」なのである。バプテスマのヨハネは、「悔い改め」の儀礼が、エルサレム神殿の独占物でなく、いついかなるところでもおこなわれるべきであること、それ以上に、日常的な営みとして、「儀式」としてではなく全身全霊、真心をもって「今」なされるべきであることを示したのである。そして民衆の多くは、この考え方に共感し、彼の下でバプテスマを受けることを願ったのであろう。主イエスも、その中のひとりであった。歴史学者は等しく、ナザレのイエスが、バブテスマのヨハネからバプテスマを受けたことは、歴史的に事実であることは間違いないと主張する。
但し、身体に水を注いだり、水につかったりすることによって、宗教的な清めと考える儀礼は、キリスト教だけでなく、他のさまざまな宗教に等しく見られる儀礼なのである。だから教会は、バプテスマの意味を、いろいろな方向から神学的に根拠付けてきた。例えば「古い人が死に、新しい人としてよみがえること」という説明は、主イエスの十字架の死と復活に預かるものとして、バプテスマの本質を示そうとしている。
確かにバプテスマについて、さまざまに理解や議論ができるだろう。しかし私たちがバプテスマを受ける根本にある事柄は、やはり、主イエスご自身がバプテスマを受けられたから、という事実であるだろう。主イエスが受けられたのだから、私もそれに倣うのである。主がその生涯で現わされた尊い愛のみわざを、そっくりそのまま真似をすることなど、とても不可能であるだろう。まして十字架の苦しみを、主イエスご自身が味わったように、そのままに味わうことなど、論外である。しかし、バプテスマにおいてならば、その時の主の心に、そっくりそのままこの私も、触れることができるのではないか。
ルカは主イエスが、バプテスマを受けて、水から上がられると、天からの声が聞こえたと記している。22節「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「わたしの心に適う者」とは、直訳すれば「あなたはわたしの喜び」という意味である。「あなたの存在自体が、うれしい、喜びを与えてくれる」という非常に直截の表明である。普通、「誰かのことを喜ぶ」という時には、その者の存在ではなくて、むしろ付加価値による判断という意味合いが強いものである。つまり誰かに対して、何かの条件付きで認めるとか、気に入る、お眼鏡にかなう、というのではない、存在そのもの、ありのままのあなたがいてくれてうれしい、喜びだ、ということである。
主イエスは、洗礼を受けられて、水の中から上がり、祈っている時に、神からのこの呼びかけの言葉を聞かれたのである。私たちも、洗礼を受ける時の恵みとは、この主イエスが聞かれた神の呼びかけを、私たちにも同じように呼びかけて下さることを知るのだ、ということである。何ら功績や実行によらないで、そのままでの祝福を神は語られる、これを知ることが一番の洗礼を受ける意味であろう。
キリスト者にとって、おそらくバプテスマを受けた時の思い出は、一生残り続ける出来事の記憶である。それは取りも直さず、意識しようとすまいと、バプテスマにおいて、「あなたはわたしの愛する者、わたしの喜び」と呼びかけられる神のみ言葉を聞くからではないか。私の恩師のひとりがこう語ってくれた。つまずきそうになる時、もうどうでもいいと投げやりになる時、あるいはもうどうにもならないと絶望するとき、なぜか洗礼を受けた時のことを思い出す。バプテスマを受けた時は、自分は何もできず、まったくのゼロであって、それでも主イエスに結び付けられた。ただ恵みのみの出来事だから。と言われる。
バプテスマのヨハネは、後に来られるメシアについて、「自分は水でバプテスマを授ける。しかし後からお出でになる方は、聖霊と火でバプテスマを授けるであろう」と語った。「聖霊と火のバプテスマ」という言葉の意味について、使徒言行録にペンテコステの日に、「聖霊が火のように降り、ひとり一人の上に留まり、弟子たちは異なる言葉で語り出した」と記される。神の恵みを語り出すことが、「聖霊と火のバプテスマ」である。洗礼を受けた者は、主イエスによって神の恵みと慈しみを、そして何よりみ言葉を、自分の人生を通して、語り出すものとされる、ということだろうか。生きることを通して何が語り出されるか、これほど興味深いことはないだろう。