数年前のことだが、ある化粧品会社が、「現代の母親像」について調べたいとインターネットで調査を行った。40代から60代の女性1000人に「母としての自分を、漢字一字で表すと何ですか?」との質問に、最も多かった回答は一位が「愛」、2位が「友」、3位が「優」(やさしいという意味のゆう)であった。子どもへの愛にあふれ、優しさで包む母親であり、子どもが成長した後は良き友人のようでありたいという母親像がうかがえる。
今度は、40代から60代の母親を持つ子ども1000人に「お母さんを漢字一字で表すと何ですか?」と尋ねると、回答は1位「優」、2位「愛」、3位「強」(つよいという意味の、きょう)であった。子どもたちから見ると、お母さんは友人というより、家事も仕事もこなす強い人というイメージであるらしい。ちなみに父親像の上位には、「静」という漢字が挙げられている。静かなお父さんと強いお母さんという組み合わせは微笑ましいが、子どもにとっても理想像なのだということである。こんな家庭が円満ということなのか、と思わせる。
今日は「母の日」の礼拝である。この日の由来は1860年代のアメリカ、南北戦争の時代に遡る。当時、ウェストヴァージニア州は北軍と南軍が駐屯する場所で、ケガ人が多く、衛生環境が悪いこと等の理由から、病人も多い状態であった。そこで立ち上がったのがアン・ジャービスという女性であった。彼女は「母の仕事の日」(Mother’s Work Days)というボランティア団体を結成し、衛生環境を整え、敵味方関係なく、病気やケガをしている人々に手を差し伸べ介護した。南北戦争終結後も曽於働きは続けられ、医療や平和運動、そして子どもたちへの教育活動等、多くの貢献を続けられた。
そして、1905年の5月9日、アン・ジャービスはアンナ・ジャービスというひとり娘を残し、没する。その2年後、娘のアンナ・ジャービスは亡くなった母親の偉大な活動を後世に残せるよう、母が生前、教育活動を行っていた懐かしい教会で、記念会を行なうことにしたのである。娘アンナの想いに共感した人々は、教会へ集い、母の存在の重さを再認識した。この時、アンナ・ジャービスは母親が好きだった白いカーネーションを全員に配り、亡き母へと手向けた。
「母の日」の起源となった、アン・ジャービス氏は、やはり現代の子ども達が、願うような「優しく」、「愛にみちた」、「強い」の人だったことが、伺える。娘アンナにとっても、母アンはそうだったのであろう。但し、母ジャービスだけがそのような人ではない。そもそも聖書に登場する「母」もまた、皆そういう姿として描かれているのである。5月はカトリックでは「聖母月」と呼んで、主イエスの母マリアを偲ぶ期間であるが、受胎告知の際に、天使ガブリエルに「み言葉に従ってあるがままに」と応答し、革命歌のような「マニフィカート」を高らかに歌い、気が変になったと思ったわが子イエスを、取り押さえに来た、そういう女性として描かれているのである。
今日の聖書個所は、最後の晩餐、そして洗足に続くパラグラフの結論部分である。34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。主イエスは、弟子たちひとり一人の足を洗われた。その時、ペトロは思わず言う「わたしの(汚れた)足など、決して洗わないでください」。すると主は言われる「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。そのすぐ後に、イスカリオテのユダの裏切りが告げられ、ペトロの離反が語られる。こういう物語の文脈を追ってゆくと、この「愛し合え」という結語は、単に教条的、律法的な文言として理解することはできないだろう。「新しい掟」という言葉には、「ただこれだけ」、というニュアンスが含まれている。人間には、裏切りがあり、離反があり、無理解があり、不和がある。良かれと思って行ったことが、プラスになると思って言ったことが、誰かの命を奪うことがある。もっとも身近な人間関係である家族、親子でも兄弟でも、血がつながっているから、自然の心が通い合う、言葉がなくても通じ合う、というわけにはいかない。
直前の33節には、このように語られている「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』」。これは、十字架の前の晩に語られた、主イエスの告別の言葉の一節として伝えられているが、もっと広く、人生そのものの姿、人と人との関係、親と子の現実も、この言葉がすくい取っているのではないか。血を分け、血のつながった親と子も、共にいることができるのは、ほんのひと時、しばらくの間なのである。いつか共にいることが失われて、離れ離れに別れて行って、その寂しさに、その空ろに耐えかねて、人は無き人を「捜す」のである。ところがその大切な人がいる所に、誰も行くことはできないのである。たとえ親と子であっても、それぞれの人生の歩んだ道を、同じ道を歩くことはできないし、その人に代わって歩くこともできない。そういう人と人との関係や繋がりの現実を、この主のみ言葉は静かに物語っているだろう。そういう人間の宿命とも言える事柄を、主はよく知っておられ、しっかと受け止められて、別れの前の晩に、弟子たちの足を洗われるのである。もしそういう人間が、せめてできることがあるとするなら、「愛」しかないではないか。「もし足を洗わないなら」つまり、「愛」がなければ、あなたとわたし、たとえそれが親子であっても、何の関係もなくなる、のである。人間にあるのは、ただそれだけである。
私が幼少の時の、母親の思い出は、その一番の記憶は、やはり母が交通事故にあって、入院した時のことである。丁度、小学校に入学したばかりの時期で、今どきの季節であった。小学校の教師をしていた母は、自転車で家庭訪問している最中に、オートバイにぶつけられて転倒し、頭の骨を折った。当時の新聞にも載るほどの重症だったようだ。面会謝絶が続き、子どもの私でも、病床に中々お見舞いに行くことができなかった。大ごとというのは重なるもので、ちょうどその時期に、家の建て替えをしていて、それまで住んでいた家は取り壊されて、仮住まいをしていた。そんな最中に事故は起こったのである。子ども心にも、家で大ごとが起っていることは分かった。心細くて、雨の降る中、壊されて更地になった家の跡地に行って、傘を差し、ぼおっと座っていたこともあった。やはり母親の生命のことが気遣われたが、どんな状況なのか、子どもには、全く様子がつかめず、不安でしようがなかった。
家族の者たちは皆、病院や家のことで、忙しく立ち回っている。子どもがひとり置かれていることを心配したのだろう、遠くに住む大叔父も泊まり込みで、一緒にいてくれたこともあった。私はその大叔父に、夜、本を読んでくれと、ねだったことを憶えている。田舎の農夫だった大叔父がしてくれる、とつとつとした朴訥な読み聞かせの声を、今も憶えている。しかし、これに随分、慰められ、励まされた記憶がある。
事故やら災害やらが起こり、生命の危機が起こり、大切な人が弱くされると、それを取り巻く人々も、やはり弱さを抱えてしまう。しかし、その弱さによって、「共に」という力が引き出され、それでそこにいる人間が支えられる。母親に起った不慮の事故は、子ども心にも、「共に」という人間の一番の力を悟らせるものだったと思う。しかし地上を歩む人間の「共に」は、「今しばらくは、共にある」という歩みであり、「わたしが行く所に、あなたたちは来ることができない」というまことに弱々しい、たどたどしいあり方に過ぎないだろう。しかし、この小さな「共に」の中に、主イエスはお出でくださり、生きて働いてくださる。母と子、親と子の間に、主イエスがおられることを知り、また主イエスの「共に」を祈り求めることが、私たちの祝う「母の日」の肝心ではないだろうか。