「終末時計(Doomsday Clock)」は、人類による地球滅亡の時刻を深夜0時とし、それまでの残り時間を示すことで、世界の危機的な現状を象徴的に警告している。米科学誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」(「核科学者紀要」の意味)が、主に核戦争と気象変動の二つの危機を考慮し、同分野の専門家の分析を踏まえ毎年の時刻を決定。1月に公表している。
広島や長崎への原爆投下を受け、1947年に創設された終末時計の、最初の時刻は「7分前」だった。これまでで終末に最も近づいたのは「2分前」。冷戦時代のまっ只中、米ソによる水爆実験で核開発競争が加速した53年だった。2019年1月の発表では、時刻が30秒進められて、再び「2分前」となった。今年1月発表の時刻は「100秒前」であったが、ロシア・ウクライナ戦争の現在この時計の針は、ほとんど正午を指しているだろう。
新約の時代、聖書の世界に住む人々の間に流布していた考え方は、「終末思想」であった。もうすぐ世の終わりが来る。この思想の根本には、人間の「漠然とした不安」がある。災害が続く、戦争が勃発する、あるいは酷い飢饉が起きる、すると人間は生命への脅威を感じる。やはり今も昔も、人は原因(敵)探しをするから、人間の罪や悪に、天罰が加えられるのではないか、と推測する。あるいは、抑圧や圧政の中にある人々が、神の義を期待して、終末を待望し自らを慰撫する。さらに人間の漠然とした不安を利用して、政治的社会的なカリスマ運動を盛り上げようとする勢力も働く。「終末思想」の背景には、さまざまな要因が絡んでいる。
文学は人間の心を映す鏡であるから、「終末思想」を表現する文学スタイルも生まれて来る。「黙示文学」と呼ばれるが、紀元前2世紀から紀元後にかけて、人々の間に流行した文学形態らしい。ヨハネの黙示録はそうした「黙示文学」のひとつであり、やはり「終末」がテーマとして語られる。但し、「終末」は未来のことであるから、誰も見聞した者はいない。だから著者は自らの想像力を駆使して、いろいろな心象イメージを沸き立たせる象徴を多用して、記述することになる。読者の心をスクリーンのように、文章表現によって映像を映し出そうという試みである。
なぜそんな発想をするのか。それは現実に執着し、現実に押しつぶされそうになっている人々の心を、解放しようとするためである。困難な現実しか見えなくなっている目を、他のものに向けさせて、心の呪縛を解き放とうというのである。様式的には、ファンタジー文学に最も近いと言えるだろう。
今日は黙示録の2章であるが、本書を理解する上で、この個所は非常に重要である。そもそもなぜ黙示録が書かれたか、著者の意図がはっきり分かるからである。2~3章にかけて、7つの教会へのメッセージが語られる。「7つ」というのも数へのこだわり、象徴なのだが、当時の主だった実在の教会の数であろう。それぞれの教会について「評価」が下され、叱責やらアドヴァイス等が語られている。並べられ、ひとつ一つにコメントが加えられ評価されているが、「黙示文学」ゆえに、表現は独特だが、非常に現代的な感覚である。会社の役員会での、各営業所業績評価報告書のような趣きでもある。こういう体裁、好みは分かれるだろうが。
まず「エフェソ」の教会、まずまずの評価、時代の空気に押し流されない、堅実な教会形成をしていることが伺える。「初めの愛から離れる」とは何を指すのだろうか。礼拝や集会、教会の活動がルーティン・ワークに陥って、信仰が硬直化したのかもしれない。真面目で努力しているが、そこに喜びがない、ということか。楽しくないのだろう。取り去られる「燭台」とは、皆の中心にあって、集まる人々の心を明るく照らし、暖かくするもの、なのだろう。その喪失が告げられるが、これは私たちの教会にとっても、鋭い問いである。
次に「スミルナの教会」、この個所は、私自身にとって、繰り返し立ち返るみ言葉が置かれた個所でもある。教会が、ユダヤ教からの迫害や攻撃を受けていたものと思われる。それほど規模が大きくなく、小さな教会であったろうと思われる。この教会については、何も批判やお小言の類は記されていない。この短い文言の中に「死」を連想させる言葉が、いくつも散見される。おそらくヨハネは、この教会の行く末に、大きな心配や危惧を感じている。最初に復活や再臨についての言及があり、さらに「第二の死」という言葉から、教会の主だった者たち、指導者が投獄され苦しめられ、あるいは生命の危機にさらされている様子が伝わって来る。さらに教会がいつなくなってもおかしくない状況だったのかもしれない。その中で10節のみ言葉が響く。「死に至るまで忠実であれ、そうすれば命の冠を与えよう」。これは私の受洗の時にいただいた聖句である。いささか重い。
『モモ』、『はてしない物語』の作者ミヒャエル・エンデは、ファンタジー文学の著者だが、ファンタジーの意味を、次のように語る。「ファンタジーの世界に、決して行けない人間がいる。またファンタジーの世界に行きっきりになって、帰って来られない人もいる。しかしほんのわずかだが、ファンタジーの世界に行って、こちらに再び戻って来る者がいる。そういう人間がこの世界を健やかにしているのだ」。
ヨハネの黙示録の執筆の意図は、これによって言い尽くされているだろう。但し、現代に生きる私たちも、それは無縁のことではない。教会は、「集められ」、そして再び「散らされる」場所である。その真ん中にあるものが、「礼拝」なのである。そこに行けない人、行きっきりになる人、そして行って、戻って来る人、さまざまかもしれない。
黙示録が書き送られた諸教会は、目に見える地上の教会である。迫害やら周囲の人々の無理解やら、教会内部の対立や葛藤、いろいろな問題をはらんでいた。そしてそうでありつつも、キリストの教会として、今できる精いっぱいの歩みをしている。キリストの身体にふさわしい群れとして、誠実に歩みたいと願い祈っている。そういう教会の姿が、随所に読み取れるのである。しかし一番の問題は、「ぶれる」という事柄である。「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ」と漱石が語るように、人間はとかく「忖度」をするのである。それで「ぶれる」。そして教会は「まじめにぶれる」から、却って始末に負えない。どうすればいいか。「お説教」ならば、人は本当には聞かないだろう。どうにかして聞いてほしい。だからヨハネは、「ファンタジー」という手法で、「ただキリストのみ」を語るのである。