祈祷会・聖書の学び ヨハネの黙示録4章1~11節

災害の続く昨今である。まもなく梅雨の時期を迎えるが、特に「水」による被害、豪雨が心配される。水がなくては生きていけないのが生き物であり、人間は特に水分が不可欠である。しかしその生命を支える大事な水が、生命を奪う元凶ともなる。つくづくやりきれない思いになる。

こういう文章を読んだ。阪神大震災で被災しながら、神戸市で医療活動を続けた精神科医の中井久夫さんは、その経験や教訓を「災害がほんとうに襲った時」に記した。修羅場で有効な仕事をした人は、自分で最良と思う行動を自己の責任で行い、指示を待った者は何もできなかったそうだ。役所の中でも規律を墨守する者と現場のニーズに応えようとする者の暗闘があり、「災害においては柔かい頭はますます柔かく、硬い頭はますます硬くなる」と結論づけている。

前回、黙示文学について、少し話をした。象徴的な事物を多用して、終末のヴィジョンを語る、という幻想的な文学様式は、あるはっきりとした意図と目的をもって記されている。それは目の前の現実が、大きな危機や困難に満ちている時に、その現実に完全に飲み込まれないように、するためである。飲み込まれたら、只おたおたとするばかりで、現実と向き合い、逃れ口や抜け道、あるいは対処の方法、また折り合いの付け方を失ってしまうからである。「災害において、柔らかな頭はますます柔らかくなり、硬い頭はますます硬くなる」ゆえに、柔らかな頭を失わないためである。

確かに、奇妙な光景を描く文学である。こんなことが本当に起こるのかどうか、などと考えるのは、野暮で頭の固い証拠である。聖書なのだから本当だと信じねばならぬ、というのも、頭の硬い証拠である。問題は、こういう風変わりな文学表現を読み、自分の心に描いてみて、面白いと楽しむことが出来るかどうか。現実を見る目と、それとは別のもう一つの世界を見る目を持ち、楽しめるなら、飲み込まれずに済む。いい映画を見た時に、あるいは良い文学を読み終えた時に、私たちの心は、以前とは変化をしているはずである。黙示録の作者は、それを目論んで、この書を書き進めるのである。

ヨハネの黙示録は、読者の心に、様々な心象風景を投影するために、いろいろな具象を用いる。まあしゃれているのである。例えば、「玉座」にすわる「キリスト」は「碧玉」「赤めのう」のようであり、そして「エメラルド」の虹が彼を取り囲む、という。「青」「赤」「緑」である。なぜそれらの色がちりばめられるのか。絵画で、聖母マリアの服の色は、決まっている。何色だろうか。「青」と「赤」である。彼女は必ずこの色の服を着て、絵画に収まっているのである。貧しかったから一張羅だった、訳ではない。つまり色に「神秘的意味」が付与されているのである。「赤」は血の色で、「十字架」をあらわす。そして「青」は「海の色」で、「純粋さ、無垢さ」を表す。さらに「緑」は、「オリーブの若葉」で、「平和」を表している。仕掛け絵本のように、至る所に「なぞなぞ」を配置し、「謎解き」を楽しんでください、と背後に暗に示すのである。だから「黙示録」、使徒ヨハネによって記されたということだが、すべて彼の創作,イマジネーションによるものではない。ちゃんと「元ネタ」がある。今日の個所は、元ネタが何であるのか、極めてよくわかる記述がなされている。玉座を取り巻くように控え侍る、「四つの生き物」がいるというのである。これは旧約で非常によく知られた具象なのである。彼の元ネタの多くは、エゼキエル書から採られている。エゼキエルは、バビロン捕囚期の預言者で、捕囚となりバビロンに連れていかれた人々に語り、慰め、精神的な支えを与えた人である。公には、祖国の崩壊、滅亡を目にし、捕囚を体験し、私生活でも、全くの突然に妻を失うという悲しみの中で、職務を果たした人である。そういう耐えがたい悲しみの中で、彼を支えたのは、「神のヴィジョン」、即ち豊かなイマジネーションであった。

エゼキエル書1章に目を向けたい。エゼキエルの見た神の幻だという。私たちからすると、実に奇妙な姿かたちである。そもそも神は姿かたちを持たない。それを敢えて視覚的に表現しようとすると、このような奇怪な形相を呈することになるだろう。バビロニアは偶像の町である。大きな神殿があり、神の像が祀られている。しかしどんな像に刻んでも、人間には真の神の姿かたちを造ることはできない、と主張しているのである。だからとんでもない形なのである。ひとつのなかに、あらゆるものが混在し、混生され、ひとつになっている。神とはありとあらゆるもの、あらゆる事柄の総和なのだ、という預言者の神学の視覚化なのである。

ヨハネは、この神の姿かたちを利用して、自らの神学的なメッセージを語る。エゼキエルでは、ひとつにされた4つの生き物を、分解してひとつ一つ独立した存在として描き出す。エゼキエルの幻はあまりに奇妙奇天烈と感じたからだろう。だからヨハネはそのかたちを分かりやすく分解した。「人間」「獅子」「牛」「鷲」の4つの生き物が、キリストの玉座を取り囲んで、賛美をするというのである。その表象は何を指示するものか。

さて今日の個所の一番の課題である。この「4つの生き物」が一体何を指しているのか、である。黙示文学は数にこだわる。「24人の長老」も、イスラエルの12部族の倍数である。「回復された完全なイスラエル」としての「教会」を表している。では「4」と言う数字は何に因むのだろうか。4の三倍(完全数)が12であるから、イスラエルを意識していることに間違いはない。真のイスラエルの源を、その原点を証言し、賛美しているものとは、何であろう。私たちが「よく知っている4つのもの」である。

そう新約に「福音書」と呼ばれる書物が4つある。福音書こそ真のイスラエルの源であるイエス・キリストを証言し、賛美するものである。4つの生き物には、目がたくさんついている、という。福音書に語られる主イエスを、しっかりと目を見開いて見なさいということである。厳しい現実だけに目を向けていたら、私たちはどうにも袋小路に陥る。立ち往生する。そこで見るべきは、この世に生き、現実に向き合われた主の姿をしっかりと見て、その歩みについて行くことである。主イエスを知るに、福音書に若くものはない。

最後にまたクイズだが、古来から「人間」「獅子」「牛」「鷲」のシンボルは、4つの福音書の愛称ともされてきた。どの福音書が、どの生き物に結びつけられているか、考えてみるのも一興である。