祈祷会・聖書の学び 創世記28章10~22節

よく知られた黒人霊歌に「ヤコブの梯子“Jacob’s Ladder”」という曲がある。「われらはヤコブの梯子を上る。われらはヤコブの梯子を上る、われらはヤコブの梯子を上る、十字架の兵士たち、さあ上ろう」。歌詞も曲もとてもシンプルな歌であるが、ハーモニーや歌い方にいろいろ工夫やアドリブがなされて歌われる。この曲は、今日の聖書個所、ヤコブが故郷を離れ、旅に野宿した夜に見た「夢」を題材にして作られている。兄エサウを騙して長子権を奪い、さらに父イサクを偽って祝福をかすめ取ったことで、兄と激しい確執を生じ、母リベカ、また父イサクの勧めもあって、彼はなかば逃亡者のように故郷を後にしたのである。聖書では、「夢」で神意が告げられたり、ヨセフやダニエルのように、「夢」に隠された意味を解き明かす知恵者のことが語られている。

新年になると「一富士、二鷹、三なすび」などと見ると縁起が良いとされる「初夢」のことが人々の口に上るが、夢は人生の転機などに、象徴的なしるしのように現れるものである。私たちも、人生の節々で、変わり目のような時に、非常に不思議な夢を見たりする。

夢は大抵、すぐ忘れてしまい、覚えていないことが多いものだが、過去に自分が見た夢で、今も心に残っている夢というものはあるだろうか。中学生になって間もなく、暗い地下の迷路のようなダンジョンをひたすら逃げる、という夢を見たことがある。後ろから真っ黒な悪魔が追いかけて来るのだが、実に父親の顔をしていたのである。何とか悪魔をやり過ごそうと、必死に穴倉の窪みに身体をひそめている、という夢であった。

それからしばらくして高校生になって、また不気味な夢を見た。父親の葬儀の場面である。父の棺を取り巻くように家族が集い、僧の読経の声が流れる中、突然、棺桶の蓋が開いて死んだはずの父が外に飛び出して、読経に合わせて踊り始めたのである。一同があっけにとられる中、祖母が「死人はおとなしくしていなさい」と一喝すると、きまり悪そうに父は棺に戻る、という次第であった。

どちらの夢も、夢らしく奇妙奇天烈なのだが、十代の半ば頃の自立を目指した精神的発達段階という見地から見たら、興味深い要素があると感じられる。心理学では、子どもはどこかで、いずれかの時期に親を殺さなければ、自分本来の歩みが獲得されないと語られる。とはいうものの、それが現実の事件になると一大事だから、精神的に内面的に行われる訳である。それが「夢」として表出されるということなのだろう。

故郷からハランに向けてひとり旅をするヤコブ、その途上で日が暮れてしまい、仕方なく石を枕に一夜を過ごすこととなる。映画の一コマのようだ。野宿したそのところで彼の見た夢は「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、神のみ使いたちがそれを上り下りしている」というものであった。かつての聖書では「梯子」と訳されていたが、今では正確に「階段」と訳し直されている。この「階段」、イメージとしてはちょうど駅やデパートのエスカレータのようなものと考えられている。天使には翼があるので階段は必要ないと思われるが、翼を持つとイメージされるようになったのは、もっと後の時代であって。天使のイメージも時代と共に進化する。旧約の記述からすると、天使は中間的存在、即ち、人間と人間の間を経廻り、人の心(はらわた)の声を聞く、という風情である。その姿は、それほど人と変わる所がないと考えられていたようだ。

ヤコブは石を枕にして眠りについた。時折、山地に大きな岩に縄が巻かれて祀られている風景を目にすることがある。古代の人々は、人間や動物などの生物だけではなく、植物、天体、無機物のものまで、すべてのものに霊魂が宿っていると考えたが、このような自然崇拝を宗教学では「アミニズム」と呼ぶ。神や精霊が山や木、岩に宿り、それを依代(よりしろ)として祀ったのである。そういう場所は古代では各地にあり神が降臨し、依代に神が宿ることで、その場所は聖地となる、と考えられたのである。ヤコブが枕したのは、偶々そのような依代、聖地だったということである。

一説に天から誰かが降りてくる夢は、「死」と関係している、という解釈がある。しばしば臨死体験で、神的な存在、あるいは先に逝った親しい人々と再会することとの関連が指摘されたりする。夢は、人間の意識の背後にあるさまざまな事柄が象徴的に表出されたものであるが、精神と生活上の大きな変化とつながっているのである。今まで、母に守られ、幾重にも庇護されていたヤコブが、今、強いられて、ようやく自分の足で歩き始めたのである。祖父のアブラハムが歩んだ道のりを、今度は逆向きにハランまでたどる旅は、彼にとって、古い自分が死んで、新しくよみがえる、人生やり直しの歩みであったとも言えるだろう。

目が覚めて後、ヤコブは「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と告白している。彼がこの旅路において、兄と断絶して、命までも狙われる事態に至ったことから、暖かで懐かしい故郷を離れなければならなかった、そしてこれから自分の人生に何が起こるのか、どのように光明が見いだせるのか、まったく分からず、行く先見えないという不安の思いを抱いての旅、そういう過酷な道のりを歩む上で知った最も大きな収穫は、いずこにおいても主が自分と共にいてくださる、という事実であった。15節「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」という神の御使いの言葉を彼は聞くのである。これを聞いて彼は「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と恐れおののくのである。何事にも恐れず勇気をもって歩み出して行くことと、人生にまことに恐れなければならないもの、即ち、これを軽んじては人生が台無しになる、何よりも重いとすべきことがあるという、2つの生の局面を、この一夜の夢が彼に知らせ、彼にもたらした。この事実に目が開かれることこそ、成熟への歩みにつながる。

古代の旅は、生命の保障もなく、きわめて過酷なものであったという。“Travel”の語源は罪人を懲らしめる「鞭」のことだとされる。しかしそれでもなお「かわいい子には、旅をさせよ」と教えたのである。旅という道のりをたどることなしに、獲得されない人生の宝があるということか、その宝とは、一体何であろう。人の情けか、情けなさか、人の優しさか、つれなさか。しかし聖書において人生の旅とは、実に神の恵みに生かされる歩みなのである。