今日は「収穫感謝礼拝」を守る。教会やミッション・スクールでは、しばしばこの日にアメリカの「感謝祭(Thanksgiving Day)」の起源について語られる。17世紀に故国イギリスを離れ、アメリカ大陸に渡った清教徒(ピルグリム・ファーザーズ)たちは、新天地に暮らし始めたものの、持ち込んだ種子が土地に合わなかったことなどから深刻な食糧難に陥り、その年の冬の厳しさから半数以上が餓死したという。飢えに苦しむ彼らに、先住民(ネイティブアメリカン)が、トウモロコシなどの農作物の栽培方法や七面鳥の飼育の仕方を教え、彼らの生活を助けたという。そのおかげで翌年豊かな収穫を得ることができ、入植者たちは神に感謝し、先住民たちを招いて共に収穫を祝う祝宴を催した。こうして現在では伝説のように想い出が語られるが、かつて同胞が味わった「飢餓」という苦しみを憶え、窮地から友愛によって救われたことへの思いが原点にある。即ち、いわば「はらわた」の記憶が、「感謝祭」の根源とも言えるのである。
「腹(はらわた)」は、飢え渇きという生存に直結する身体の部分であることから、さらに悲しみ痛みの座でもある。人間は、恐怖や悲しみをいつまでも記憶するようにできているらしい。昔話が不気味なストーリーを含んでいるのは、記憶に長く留めようとする意図があるとも論じられる。恐怖や悲しみに関わる「はらわた」の記憶は、根源的規範として作用し、人間の生き方に深く影響を与える。
こういう歌がある。「見ることなきはらわたなどを思うとき恥多き身が立ちあがりたり」、武川忠一『地層』(1989年)の中の一歌である。健康診断で内視鏡検査が一般化し、自分自身の体の内側のくっきりした映像を見る機会も時にある。そうした自分の「はらわた」の中を見るときに、人は何を感じるだろうか。もちろん自分のそれを直接見ることはできない。それを他の人と比較して、大小やら色やら働きやらを比べたりすることもまず無理であろう。人間にとって、体の内部とは自分自身のものであり個人を規定するものでありながら、直に見たり触れることのかなわない、不思議で厄介な部分である。
歌人は「恥多き身が立ちあがる」と詠う。「はらわた」は、自分の内で抱え込んでおりながら、自分ではしかと見えない部分である。実にそこにわたしの「恥」が詰まっている。実際に「腹黒い」わけではないのだが、余人にはおいそれと見せることのできない、自分のまことがそこにあり、それを押し隠すように、あるいは忘れたふりをして日々を生きているが、ふとしたことでそれが思い起こされ、外に顕われ出て、自分が問い詰められる思いにさせられる、という。いささかナイーブすぎる自覚だろうか。
今日の聖書の個所は、ダビデがまだ少年時代の頃の話である。今でもユダヤ人の間で最も人気がある登場人物は、この人に他ならない。末っ子の少年が、やがて全イスラエルの王として立てられる、そもそもの発端が語られている。預言者サムエルは、イスラエルの王としてふさわしい人物を捜すように、神から命じられる。1節「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」。その派遣命令に併せて、留意事項が示される。人物についての評価基準のような指針である。7節「主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」。人間の判断基準は「見た目80%、いや90%」などと言われている。中身が大事と言いながら、それはおいそれと見えないものだからいきおい見た目の良さに捕らわれるのである。だから仰々しく外側を飾り立てる。そして「内なるものは必ず外に現れる」、「外見の乱れは、心の乱れ」とか、分かったようなことを言い、さらに悪いことに「人は自分の見たいものしか見ようとしない」のである。聡明なサムエルですら、最初、エッサイの長男、「エリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った」という。親のエッサイですら「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と冷淡な調子である。8人もの息子の内、末っ子でまだ子どものダビデには、目を向けようともしない。実のところ、これが現実の人間の判断なのである。だから人の目を殊更に気にして一喜一憂するというのは、余り得策ではない。他人の評価は、がっかりさせられてあたりまえなのである。
この個所のみ言葉、サムエルに語られる、神の言葉の中で、最も注目されるのは「主は心によって見る」という文言である。単純に読めば「神は人間を外見ではなく、内側の心を見ようとする」という意味だろうと私たちは考える。さすがに神は、人間と違う、心の中を見られるのか。心の有様で判断されるのか。ところが新共同訳は「心によって見る」と幾分、ぎこちない訳し方をしている。口語訳では単純に「心を見る」となっていた。なぜ敢えてぎこちない訳文にしたのか。それはこの個所はいわゆる「心を見る」、客観的に「心」を観察、分析するというような単純な意味合いではないことを、読者に伝えたいからである。他人には決してうかがい知ることの出来ない、はっきり見えない心の内を見るという、できるかできないかはともかくとして、容易ではないことを、示したいのである。
この文言を理解するために、エレミヤの言葉が非常に助けになる。この憂愁の預言者は次のようなみ言葉を語っている。非常にエレミヤらしい物言いである。「心(レーヴ)はすべてにまさって偽るもので、ひどく病んでいる。しかも誰もそれに気づいていない。主なるわたしは、ひとり一人の心を探り、はらわたを究める」(エレミヤ書17章9~10節)。
この文章からエレミヤの「心」についての洞察力の深さに感心する。私たちは「心」こそが私の真実の在りかだ、と考えている。外側はいくらでも取り繕うことができるし、飾りたて覆い隠すことができる。しかし心は正直であり、そこにこそ、ほんとうの私がある。ところが、心理学者の河井隼雄氏は言うように「心うそつく、身体嘘つかない」、その通り、心は雄弁に嘘をつくのである。大丈夫でないのに、大丈夫と言い、うれしいのに悲しそうにするのも、妬みに燃えているのに、平静を装うのも、みな心の働きである。どうも心というものは素直に真っすぐに、できていないらしい。だから主イエスも、鋭く警鐘を鳴らしている。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである」(マタイ15章18~19節)。
そもそも私たちは「心」という訳語に惑わされているきらいがある。ここで用いられている「レーヴ」という用語は、元々の意味は「心臓」である。エレミヤの言葉にあるように「はらわた」と合わせて語られることが多い。それは「キルヤー」で、本来「腎臓」を表している。つまり「レーヴ」と「キルヤー」の2つ併せて「腹」そして「腹の中」を指すのである。「レーヴ」は腹の中心、はらわたの真ん中、という意味合いである。だから「心」と訳すと清らかな印象になるが、「腹」となると途端に、生臭い、人間の本音、恥やら偽りやごまかし、裏切り等、隠しておきたい秘密の巣窟、というイメージに変わるではないか。「腹に一物」「腹黒い」「腹立たしい」「腹に据えかねる」の「腹」である。その真ん中にあるのが「レーブ、心」に他ならない。
確かに「心によって見る」という表現は、翻訳が難しい表現ではある。外からざっと観察するのではない。「神ははらわたを探る、究める」とエレミヤが言うように、誰かの腹の中に入って行って、その奥底までに分け入り、極みまで探索し、確かめる、のである。それと同時に、この「心によって」は、その持ち主の思い、感情、喜び、憂い、嘆きと自分の心をひとつにする、ひとつになる、ことが「心によって見る」という言葉に込められたニュアンスである。
こういう文章がある、「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人間が誰はばからずしてしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない」。この言葉は、森有正が『土の器に』、あるいは『アブラハムの生涯』等の講演の中で繰り返し語った、聖書の人たちの心、そればかりか自分自身の内面、腹の内をあらわにしている語りである。「神が心によって見る」とは、その人の心が、「良いか悪いか」、「善か悪か」、「嘘か真か」を識別するということではない。人間の心は、どこまで行っても、どちらかではない、どちらもなのである。主イエスは、そのどちらにも手を伸ばし、分け入って、私たちのほんとうをご覧になられる。そしてそのほんとうをご自分のものとしてくださる。私たちのほんとうと、一つになって歩んでくださる。
ほんとうのことをはっきり見ると、腰が据わる。腹が決まる。それが存在の確かさ、根っこになるところがあるのではないか。「ほんとう」がどんなことでも構わない。小さなことでも、くだらないことでも、悪いことでも、ずるいことでも、どんなことでも構わないのではないか。そういったいろいろな「ほんとう」の上に、神が手を伸ばし、分け入ってくださる。ほんとうを共にしてくださる、それで私たちの生命は成り立っているのである。
今日は収穫感謝礼拝である。「収獲感謝」というと普通、自然の恵みを寿ぎ、その源泉の神の恵みを讃え、感謝する、という意味合いである。食物の恵みをいただかなくては、生きられないのが私たちの現実であるが、本来の「収穫感謝」とは、生命をいただくことへの感謝ではないか。私たちにとっては、その一番は、主イエスの晩餐にあずかることである。主イエスは言われた「これはわたしの身体である。私の血である。わたしを記念(想起)するためこのよう行なえ」。主イエスご自身の身体と血をいただくことで、主イエスがわたしのはらわたに手を伸ばされ、はらわたをご覧になり、そこに働かれるのである。すべてを知られる主イエスが、はらわたの内におられる。「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」この主がおられるのである。