皆さんは「ポイ活」という言葉を知っているだろうか。「就活」「終活」あるいは「婚活」のような類の言い方であるが「ポイント活動」の略である。ポイント・カード流行りの昨今である。特定の店で、買い物をするとポイントが付く、たくさんつく日もある。近頃では国もまた「ポイ活」を推進している有様である。「マイナンバーカード」を手続するとポイント贈呈、電気を節約するとポイント還元、ワクチン接種で、旅行に行くとポイントあげる等、しかし、贈呈と言っても、何か物を買ったり、お金を使わなければ、ポイントはもらえないのである。ポイントを貰うために、殊更、必要でないものまで買って、本当に得になるのだろうか。
作家、早助よう子氏の短編ショート・ショート「ポイントカード」(2016年)は、人が人生で行う行動や経験が、すべてポイントとして評価され、加算される仕組みの、近未来の時代の話である。「10年後」をテーマに35人の作家が描いた『十年後のこと』(河出書房新社)に収められている。最近、十年後はどうなっているか、と考えても、予想がつかない時代であると感じるが、人間のすべての善悪までポイント化された世界とはどうだろう。獲得した正負のポイントは、どう用いられるのか。故人の生涯ポイント数の発表は、一人ひとりの人生最後の祭典、「葬儀」の一大行事となっているというのである。遠い昔、ポイントは商品割引や旅行などの特典と、引き換えることができた時代があったと伝え聞いた主人公は、耳を疑う。「人生が、そんなくだらないものと釣り合うとは、何たることか」。
確かに、人生をポイント・カードのように見なして、自分の一生のポイントがどんな塩梅かをひたすら気にするというのは、滑稽だが、生きる意味とか価値観とか、これまでの常識が通用せず、希薄になってしまった時代に、しかも、人生100年時代と言われる長く生きる中で、何をもって生きる励みにするか、支えとするかは、確かに重い課題となっている。この作品はそういう風に、一人ひとりの人生の質をどうやって具体化し、どのように形にし、確認できるのか、という問いを発しているのであろう。
今日はテモテへの手紙一3章から話をする。新約聖書の中でも、最も遅くに執筆された書簡である。紀元2世紀半ばを想定する学者もいる。最初の教会が誕生して、一世紀余り経った時代である。一世紀も過ぎれば、商店ならもう「老舗」である。今日の個所は、書簡の中間部で、著者はひと息、休憩をはさむような体裁で本章を記している。昔のアメリカ映画は、長尺物には、間に休憩(インターミッション)が挟まれていたものである。それは売店の飲食の売り上げを伸ばすためにも、大きく寄与していた。
聖書学者たちは、最終節、16節について、「当時の教会で歌われていた讃美歌であろう」と推測している。つまり本書は、教会の礼拝で、説教のかわりに読み上げるように、という趣旨で記されているから、真ん中あたりのここいら辺りで、讃美歌を歌い気分を、一新しよう、という意図がうかがえる。少し歌詞に注目したい。「キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた」。皆さんは、これを読んで毎週礼拝で唱える「使徒信条」との類似を見出すであろう。「三位一体」、「昇天」、「受肉(乙女マリアより生まれ)」、「派遣、宣教」等の「キリスト教教理」の原型が短いながらも、すでに語られている。つまり、この時代になると、すでに教会は「教理」、つまり教会の正しい信仰の考え方はこうですよ、という統一見解を、教科書のように提示できるようになっている、ということである。このように「教理」がある程度まとまっているならば、教会の組織、職制もそれなりに固まって来ているのであろう。
そこでやはり教会の重要な課題は、教務、教える仕事である。ヤコブ書3章に「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである」。一般の社会もそうであろうが、教会もまたそのようである。「人間は過ちを犯す」この当たり前の事柄に、どう対処するか。経験豊かな先輩同労者がいて、懇ろに教え導いてくれるのが最善である。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」、どなたかの言葉である。こういう良き導き手が、どこの教会にも居てくれればいいが、この国の教会を見ても、それが困難なことがよく分かる。だからこそ「牧会書簡」のような、こういう手紙が必要となったのである。
14節以下「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです」。つまり「未熟な若い牧者よ、決してあなたのことを無視している訳ではなく、すぐにでもそこに行って、会って話をしたいと願っている。しかし、拠無くて行けないかもしれない、だからこの手紙を教科書として、教会でのふるまい方を学んでほしい」というのである。ひとり右往左往し立ち往生しており、頼りになる助け手がいない、どうしたら良いか、不安にかられる若い牧者への心が、よく配慮されていると思う。
「やましさ」を表す「後ろめたい」はもともと、不安を意味する言葉だったという。諸説ある語源のうち、小学館の日本国語大辞典には「後方痛(うしろべいた)し」の古語が見える。目の届かない背後はかつて、心をさいなむものだったのだろう。「うしろめたい」即ち「うしろべいたし」とは、誠に言い得て妙である。ひとり不安を抱えて、皆の前に立ち、み言葉を解き明かし、とりなしをする教師の心そのものではないか。「もっと厳しい裁きを受けることを、よく分かっている」。
そういう風に、ひとり不安を抱える教師に対して、15節にこう語られる。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」。新共同訳は、少しきれいに訳しすぎているきらいがある。「教会を支える柱や土台は、神がここにいてくださって、今、生きて働いておられるということです」。つまり教会のほんとうに支えているのは、立てているのは、ひとえに神が、ここに生きて働いておられるからであり、人間の力、ましてや教師の力量などではない、と強く励ましているのである。そして日頃、慣れ親しんでいる讃美歌を、共に歌おうというのである。「主イエスは人となられ、私たちと共に生きられ、愛(神の義)を与えてくださり、今も聖霊によって、その愛を注いでくださっている。今も、教会の宣教のわざを、天国から御使いと共に助けて下さるから、教会は世界に広がる」。
ある知人の大学の先生だが、教育学を専門に教えていた。ところが、ある時、疑問を持った、自分は大学で教えているが、中高の教員免許を持っていない。教壇に立てない者が、教員を養成できるのか、と。そこで、教職免許の単位を取り、最後、教育実習に出ることになった。ところが面白い人で、「夜間中学校」を実習の場所に選んだというのである。最初、見学のため授業に出てみると、大人数ではないが、まあ年齢、性別、風体、国籍、出身、皆、多様な人たちが、机に向かって学んでいる。「新入りの生徒が来た」と思われたのだろう、年配の方からすぐ話しかけられたという。「あんたねえ、どういう訳でここに来たのかは知らないけどさ、ここはいいよう」。
「ここはいいよう」の言葉の中に、どんな心が込められているか、想像できるだろうか。その後、こんな会話がなされたという「数学、特に方程式は初めて習う。文化が違う、過去も違う、いろいろな人と知り合えるのは魅力」。またある生徒はこう言ったそうである。
「自分自身を試して生きていく力をつける、生きていく。80年以上生きてきても知らないことがある。これは家にいても得ることができません。有難い」。
「ここはいいよう」の言葉の背後に、「ここには安心がある、喜びがある、ありがたい」。つまりここは「わたしのまことの家だ」と言っているのである。神は「教会はわたしの家だ、そこに生きて働く」と約束してくださっている。見えない主イエスが、今も変わらずちゃんと生きて働いてくださっているのを、知らされる時、私たちに、「ここには安心がある、喜びがある、ありがたい」「ここはいいよう」という祈りが生まれるだろう。
「ポイ活」の時代だが、ポイントなど、いつの間にか「ポイっと」なくなってしまうであろう。それよりも人生のポイントは、「ここには安心がある、喜びがある、ありがたい」「ここはいいよう」をどれだけ味わったかであろう。