「週休二日から三日へ」、欧州、特にドイツでは現在、このような労働形態が普通になりつつある。この背景には、産業の合理化、生産性の向上から生じる、労働者の雇用問題がるだろう。各分野でワークシェアリングしなければ、職を手にできない人が、多く出てしまうのである。しかしそれ以上に、彼らの「労働観」が強く反映していると思われる。
「アルバイト」“Arbeit”という言葉はドイツ語であるが、元々の意味は「労働」「働くこと」である。古ゲルマン語の“arba” が語源で、「家来、奴隷」といった意味を持つ。つまり、ドイツの労働には「苦役」というニュアンスが含まれていることになる。これは聖書にも語られる感覚であるとも言えるだろう。罪を犯し、楽園から放逐される人間に、神は告げる、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ、お前は顔に汗してパンを得る」(創世記3章17~19節)。罪の下では、労働はもはや喜びではなく「苦役」であることが、はっきりと記されている。こうした観念が、今もドイツの人々の心に影響を与えていると思われる。
ところが、「一週に3日の休み」が、かの国の人々には、大きな悩みとなっているというのである。人間、休みの日に、只だらだらと過ごしていたら、心身がリフレッシュできるかと言えば、却って疲労を感じるのである。何もせずに「ぼおー」としているのも、苦痛なのだ。そこで、その自由な時間を用いて何をするかが、大切な課題となっている、という。贅沢な悩み、と言えなくもないが、私たちにとっても、同じ問いが投げかけられているだろう。リタイアした後の数十年を、何をして、どのように過ごすか、という問いである。時間はふんだんにあるが、体力は徐々に衰え、生活のために使える年金も、限られている。そういう制約の多い中、なすべきことを考えるには、大きな「知恵」が必要なのである。
ドイツの人々の間で、今、はやりとなっているのは、自分の手で、家を建てることであるという。ブロックやレンガを積んで、壁を作り、窓を開け、DIYの家を組み立てることは、確かに時間はかかるが、飽きずに続けるなら,いつかは完成するのである。屋根を作るのは高度な技術が必要だが、ホームセンターに行けば、さまざまなサイズの屋根の完成品が売られているので、出来合いのものを買って来て、取り付ければ完成である。住宅建築に高額の費用が掛かるこの国なので、真似をしたらいかがか、と思うが、残念なことに、世界の大災害の10%を担保するこの国のこと、家を自作するのは簡単ではない。
さて「主イエス・キリストとは誰であるか」という問いは、教会誕生と共に、さまざまに思考されてきた教会の課題である。このような「問い」は、教会の内外からしきりに問われた事柄であり、迫害の中で、自分たちの信仰の内容をきちんと説明し、自らの正当性を「弁明」する必要もあったのである。それらの問いのひとつが、キリストの「職務」について、であった。現在でも、「あなたは何をしている人か」、つまり、「どんな仕事をしているのか」と職業を尋ねることは、ごく自然に行われている。「仕事」は、その人のアイデンティティを表す大切な要素の一つであるだろう。そのように、キリストはどのように働かれるのか、どのような仕事をなさるのか、何をなされるのか、と問われたことは、当然と言えば当然だったろう。
この問いについて、教会は「キリストの三職(務)」という具合に説明を試みた。即ち「王、預言者、祭司(大祭司)」この3つの職は、旧約において、イスラエルに伝統的な、最も重要な働きと見なされているものである。「ヘブライ人の手紙」では、キリストが大祭司として機能されることを、とりわけ強調し、とりわけ8章は、「新しい契約」の仲介者たるキリストを語るのである。
イスラエルの神殿祭儀において、大祭司の務めは重いものであった。神殿の至聖所の前で香を焚き、罪の赦しのために、犠牲の供物を焼いて献げ、人々の罪の贖いのために祈ることが、大祭司の最も大きな仕事であった。つまり神と人々の間に立って、即ち「破れ口に立って」(詩106編23節)、神への「とりなし」をおこなうのである。諸々の罪のゆえに、神の怒りを前に、おのが身を挺してなだめ、人々に対しては神への悔い改めを促す、という務めである。毎年毎年、大祭司は「祭り」のに度毎に、これを行うのである。
ところが、紀元70年に起った「ユダヤ戦争」によって、ローマ軍はエルサレムを攻撃し、神殿の地の基までも覆し、徹底的に破壊し尽くしたのである。「ヘブライ人への手紙」が記された時代には、もはや神殿は跡形もなく、祭儀も行われていなければ、大祭司もまた不在なのである。教会にとってもこの事実は大きかったと言えるだろう。神と人との間にあって、ひたすら執り成すことによって、神を人とをつなぐ仕事をする誰かがいなければ、もはや私たちは、神と関わりを持つことはできないのである。
古の預言エレミヤは、後の時代に成就するであろう、「新しい契約」について預言した。8節以下「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる。(中略)わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
小さな者から大きな者に至るまで彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」。神と人とのまことの関係が、無条件に回復されるというのである。但し、神と人とは、質的に全く異なる存在であり、本来、直接に結びつくことできない。この両者は、ただでは結ばれない。間に立つ「仲介者」がどうしても必要なのである。そこでこう語られる。6節「今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです」。この大祭司は、十字架の上で、血を流され、人々の罪の赦しを願い、神にとりなしをし、さらにご自身の身体を、あがないの供え物として、み前に献げられたのである。神殿がなくなっても、この方の恵みの働きがある限り、私たちは神の子として生きることができるのである。
休みの日は、神の安息にあずかることが、その趣旨である。神の「完全」は「すべてを良しとして」、「あるがままに安んずる」所に最もよく表されている。ここに私たちの安息の根もあるだろう。休むことによって、私たちは人間に戻ることができる。主イエスが間にいてくださることによって、それが可能となるのである。