2014年7月20日 主日礼拝・説教要約
説教『信仰を告白する勇気と力』(ルカ12:8~12)
◎7月第3の主日を迎えました。先週は、梅雨明けを前にして蒸し暑い日が続きました。間もなく梅雨が明けると思いますが、体調に十分気を付けてお過ごしください。学校は夏休みに入りました。子ども達が豊かな自然に触れ、多くの人と接し、大きくたくましく育っていくように見守っていきたいと思います。
◎今日も聖書の御言葉からイエス様のメッセージを聞いて参りましょう。今日の箇所は、ルカ福音書12:8~12です。前回は「世の人を恐れるな。真に恐るべき方・神様だけを恐れて生きよ。神はすべてを知り、私達を守っておられる。そこに真の自由と平安ある」というメッセージを聞きましたが、今日の御言葉は、そこからさらに一歩進め、「あなたが信じている福音を公に言い表し、世に宣べ伝えよ」と教えています。
今日は、今日の箇所を3つに分け、それぞれから聴くべき大切なメッセージを聞いていきたいと思います。
◎第1のメッセージは、12:8~9節にある「あなたの信仰を人々の前に公に言い表しなさい」ということです。8節に「人々の前で自分を私の仲間だと言い表す」とありますが、これは「イエス様を救い主と信じます」という信仰を言い表すことです。この「人々の前で言い表す」と言う言葉は大変大切な言葉です。
この言葉について2つのことを心に留めておきましょう。一つは、それはその言葉が「公に告白する」と訳せること、「信仰とは公に告白することだ」ということです。信仰は個人的なものというより、公的なもの、パブリックなものなのです。ローマの手紙10:10に「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」とありますが、信仰とは心の中で信じるだけでなく、公に告白することで救われるものなのです。ではなぜ、信仰は公に告白すべきなのでしょう。それは、主イエスによる救いがこの世のすべての人・被造物のための救いだからです。この世の創造主であり支配者である父なり神が、被造物である私達を救いために遣わされたのが主イエスです。その救いは公のものです。だからその信仰も公に告白すべきなのです。もう一つ心に留めておきたいのは、「信仰を人々の前で言い表す」とは「人々の前で主に感謝を捧げることだ」ということです。詩編の言葉「主に告白する」が「主に感謝を捧げる」と言い換えられている所があるように、神への信仰告白とは、神に感謝を捧げ、神への献身を告白することなのです。しかし、信仰を公に告白することは難しいことです。特に批判・軽蔑・非難・迫害がある時は命がけです。でも、イエス様は12節で「何を言おうか心配するな。言うべきことは聖霊が教えてくれる」と約束されています。聖霊が私達を守り、支え、勇気と力を与え、導いてくださいます。心配することはないのです。
◎第2のメッセージは、「聖霊を冒とくすることは赦されない」ということです。12:10に「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒とくする者は赦されない」とあります。主イエスの悪口を言う者は赦される。主は愛と寛容の方ですから赦される。しかし、「聖霊を冒とくするものは赦されない」というのです。では、「聖霊を冒とくする」とはどういうことでしょうか。マタイ福音書12:31で用いられた同じ言葉は、この文脈からすると「私達が神の霊・聖霊によって救われたことを否定すること」「神の救いを悪霊によると言って非難すること」を意味していると言えますが、このルカ12:10の言葉は「これまで私達を救いへと導いてくださった聖霊を否定すること」「私達を救いの中へ導いてくださった主イエスと主イエスの霊・聖霊を否定すること」、さらに、「主イエスによって救われたと言う信仰を告白するように働きかける聖霊を否定すること」を意味していると思われます。これは、逆に言えば、「私達が主イエスの救いにあずかったのは主イエスの導き、聖霊の導きがあったからだ」ということを意味し、また、「私達の内には主イエスの霊・聖霊がおられ、今も、これからも導いてくださるのだ」ということを意味しています。
聖書を気仙沼地方の方言・ケセン語で訳された山浦玄嗣先生は、この部分を「自分の心に神様の思いを運ぶ尊き息吹が気高き志となって吹いてくるのを分かっていながら、これに刃向って悪態をつく者は、いつまでもそれが気になって、がんじがらめの惨めなことになってしますぞ」と訳されています。私達の心には、神の思いを運ぶ尊い息吹としての聖霊が吹き込まれているのです。そのことを重く受け止めましょう。
◎最後の第3のメッセージは、12:11~12にある「会堂や役人、権力者の所に連れて行かれた時は、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配するな。言うべきことは聖霊が教えてくれる」ということです。信仰を公に告白することは簡単なことではありません。特にルカ福音書が書かれた80年代は迫害期でした。しかし、主は迫害を恐れるな、主が、聖霊が導いてくださると言われます。そのことは使徒言行録を読むと分かります。イエス様の霊・聖霊はどんな時でも必ず守り、支え、導いてくださるのです。