この国の学校給食の始まりは、1889(明治22)年に遡る。山形県鶴岡町(現・鶴岡市)の大督寺というお寺の中に建てられた私立忠愛小学校で、生活が苦しい家庭の子どもに無償で昼食を用意したことが、日本における学校給食の起源とされている。その寺の僧侶が一軒一軒近隣の家々を回り、お経を唱え、お布施として提供された米やお金で用意したものだったという。その後、1923(大正12)年には、児童の栄養改善のための方法として国から奨励されるなど、徐々に広まりを見せていった学校給食であるが、戦争による食料不足などを理由に中止せざるを得なくなってくる。戦後、食糧難のため児童の栄養状態が悪化し、国民の要望が高まったことで再開され、1954(昭和29)年には「学校給食法」が成立し、実施体制が法的に整い、今日に至っている。
ところが現在、この国で長期休暇中など給食が提供されなくなる時期に、体重がひどく減少する子どもが少なからずいることが、伝えられている。「子どもの貧困」、「7人にひとりの子どもが、給食を命綱にしている」というのである。この国の歴史を見ても、子どもが飢える時代は、異常な時代と言えるが、識者によれば、かつての貧困は「見える貧困」であったが、現代のそれは「見えない貧困」を越えて、「見せない貧困」に変わって来ているという。見えない子どものうめきが聴こえるだろうか。
今日は福音書中の「給食」の話である。「五千人の給食」の物語は、新約聖書中4つの福音書すべてに記されている。共観福音書ばかりかヨハネ福音書までも記載している伝承は、それ程多くはない。そして各々の福音書がそれぞれの個性を持って記述しているにしても、一定の分量を割いて生き生きと記していることは、この伝承が教会にとっていかに重要であったかを示唆するものである。「生き生きとしている物語」と言ったが、それはそこで供された食物まで、きちんと記していることにも表れている。「(大麦の)パンと(干した)魚」、この国最初の給食メニューも、「塩鮭一切れに塩のにぎりめし」であったという。何となく符合しているではないか。
12弟子たちを始め、最初に主イエスのもとに集った人々は、主イエスご自身から「神の国」についてのみ言葉を聞いた。「神の国は近づいた」と主は言われる。神の国は、単に理念や観念、思想やプロパガンダではなく、この耳で聞き、この目で見、この舌で味わい、ふれることができるものであった。主イエスが人々にたとえ話を語られる、つらい病に悩む人々が癒される、主イエスを囲んで皆で飲み食いする、するとそこに喜びと平和が拡がる、即ち、主イエスと共に、今、私たちのすぐ側、手の届くところに神の国は来ている、と人々は受け止め、それを実体験したのである。このように主イエスが現わしてくださった神の国を、どのように表現すれば最も真実に語ることができるのか、主イエスにふれあった人々はいろいろに語り伝えたのだろうが、その最も見事な文学的結実が、この「五千人の給食」の物語ではなかったか。「神の国」、「天国」、そして「救い」というような宗教的な事象、本来「目に見えないもの」は、「物語」という方法を用いなければ、伝えられない事柄である。子どもの心は、まさに親を始め、周りの人々の語る物語によって、形づくられ培われて行くのと同じである。
この物語は、読む人にいろいろな想像の翼を拡げさせる。主イエスがいて、五千人、一万人もの人々がひしめいている、50人くらいの組に車座になって座る、大人も子どもも、年寄りも若者も、女も男もそこにいて、あっちを見たりこっちを見たりして、誰ともなくおしゃべりしたり、笑い声が絶えず聞こえ、近くにいる者たちと遊び戯れている、お腹が空いたと感じるその内に、何かしらの食べ物が運ばれてきて、皆でちぎって、分けあって食べて、お腹を満たす。これが「神の国」だというのである。今もそれほどめずらしい、特別な風景には思えないけれども、ではこの風景以上に、「神の国」にふさわしい景色はあるのか。
ここが寂しい荒れ野でなくて、エルサレム神殿の大庭や、ヘロデ大王の大宮殿ならば、より神の国にふさわしいのか。あるいは「5つのパンと二匹の魚」ではなくて、全世界の珍味佳肴が食卓の大テーブルに所せましと並べられていたら、その方が「神の国」にふさわしいのか。仰々しく、厳めしく、ここでの振舞い方やマナーが煩く告知され、その入り口で厳しい入場制限や審査がなされ、それをクリアーした者だけが入ることができる、というような所が「神の国」にはより相応しいのか、皆さんにとって、「神の国」とは、どのような所なのか、どんな「神の国」にいたいと思うのか、「五千人の給食」は、そんな素朴だが根源的な問いを投げかけられる物語である。
この物語がどの福音書にも記され、そして同じような重複伝承「四千人の給食」の物語が伝えられていることは、初代教会が、自分たちのあるべき姿かたち、そのモデルとしてもの物語を理解し、受け止めていた、ということなのだろう。物語の行間には、初代教会の人々の肉声も響いているようだ。
12節以下「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」こういう何気ない弟子と主イエスのやり取りの言葉の中に、当時の教会が置かれていた状況が、リアルに読み取れるのではないか。「いっそのこと、教会は解散した方がいいのではないか、迫害によって住む所を追われ、居場所を失い、あてもなくさすらうような荒れ野の中に、自分たちは置かれている。そういう中で、主イエスよ、あなたは、あなたがたの手で集められた人々に食べ物を与えなさい」と言われる。ところが教会には「パン5つと魚二匹」ほどの乏しい手持ちしかありません。おそらく教会の人々、特にお世話役が、集まる人々への賄い、お腹の世話に苦慮した心情が、実感として反映されているだろう。「わたしたちが食べ物を買いに行かない限り」、この表現は反語的であり、「到底できない、不可能だ」というニュアンスが込められている。それは金銭的な負担の過重という意味以上に、迫害の具体的な仕打ちとして、「キリスト者には物を売らない」といういじめ的行為、地域共同体からの拒絶があったことが伺われる。
どの福音書にも目にすることのできる「五千人の給食」の物語だが、もちろんそれぞれの福音書記者の独自な目が息づいていることは勿論である。ルカの場合は、やはり物語の流れを短く端折りながらも、これだけはしっかりと書いておきたい、という鋭い筆致も目にするのである。12節末尾「わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」、この台詞に注目したい。他の福音書は、「ここは人里離れた所で」という具合に、場所の説明のような客観的な情報を伝えるのみであるのに対して、ルカは、自分たちの生きているところ、足を置いている所、即ち、教会が働いている場所、遣わされている所が「人里離れた所」だと強調しているのである。教会は「人里は離れたところ」に立てられる、どういうことか。
「人里離れた」とは、直訳すれば「遠いところ」という単純な意味の用語である。人間から遠いところ、人間から離れたところ、とは非常に象徴的な表現である。心が通わない、通じない、人と人との関係が破れている、断絶している、そういう所に、主イエスはやって来られ、そこで人々をみもとに招かれるのである。さらに人間と人間との愛が破れ、神への信をも損なわれているところ、それは神の子が人々から「十字架につけろ」と罵られ、釘付けられたあのゴルゴタを示唆しているだろう。十字架が立てられたゴルゴタは、エルサレムの町のはずれに位置する、寂しい丘の上である。人の心の「人里離れたところ」そこに十字架は立てられた。即ち、そこに神の国は現わされる。そしてそこにこそ教会は立てられるというのである。
ドストエフスキーの未完の大著『カラマーゾフの兄弟』の中で、皆に最もよく知られている場面は、「カナの婚宴」だろう。敬愛する信仰の師、ゾシマ長老が亡くなり、その亡骸の傍らで主人公のアリョーシャがひと時の夢を見る。幻の中で、愛する老師と共に「カナの婚宴」に招かれるのである。招かれた大勢の人々の真ん中に、あの方が座っている。若いアリョーシャは怖れる。「『こわいのです……見る勇気がないのです……』アリョーシャはささやいた。ゾシマはこう諭す。『こわがることはない。われわれにくらべれば、あのお方はその偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味に思えもするが、しかし限りなく慈悲深いお方なのだ。愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。たえず新しい客をよび招かれ、それはもはや永遠になのだ。ほら、新しいぶどう酒が運ばれてくる。見えるか、新しい器が運ばれてくるではないか……』。
なぜ主の宴に招かれたのか分からず、当惑する若い兄弟に老師は言う「『ここにいる大部分の者は、たった一本の葱与えたにすぎない、たった一本ずつ、小さな葱をな……われわれの仕事はどうだ?お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか』。
神の国、天国は、誰でも、それを必要としている人と、「一本の葱」、あるいは「一切れのパン」と「一切れの魚」を分かち合い、共に食べ、打ち興じることができる所なのである。そこがどれほど「人里離れた場所」であっても、「神には最も近い場所」なのである。