今日は教会暦では「灰の水曜日」である。この日から今年の「受難節」が始まる。最初の教会にとって、最も大切な日は、主イエスが十字架に付けられ亡くなり、三日目によみがえった出来事を祝う「復活祭」であった。ユダヤ教の安息日(土曜日)ではなく、「週の初めの日」つまり日曜日毎に礼拝を守るようになったのも、復活の出来事を覚えてのことである。
但し、旧来の慣習を受け継いだ面も多分にあった。主イエスの復活を記念するにあたって、ユダヤ教の「四旬節」の慣わしを踏襲して、復活祭前の40日間を精進潔斎して、「悔い改めの心」で過ごす習慣も生じたのである。3世紀頃になると、この時を洗礼志願者の準備期間ととらえるようになり、四旬節の始まりの日を特別の日として礼拝を守り、次いで4世紀頃になると、迫害や諸事情のために教会から離れた人が、また信者として教会に戻ってくる際に、「悔い改め」を表明するために灰を身にかぶったことで、次第に典礼化されたようである。教会暦で「灰の水曜日」という名称が定着した由来ははっきりとはしないが、1091年のベネヴェント会議で、教皇ウルバン2世が「ローマ教会にも灰を使った儀式を普及させるように」と語ったことから、そのように呼ばれるようになったという説もあるようだ。
カトリック教会などでは、この日の典礼に、前年の「棕櫚の主日」(に使用されたなつめやしまたは棕櫚(しゅろ)の枝を集めて、燃やした灰を取って「塗布式」が行われる。司式者が会衆のひとり一人の額に灰の十字を印する。その際に「あなたはもともと土から生まれたので、土に返る、だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい」と唱えて祈ることが、慣わしとなっている。
今日の聖書個所、ヨエル書2章12節以下のパラグラフは、教会において「灰の水曜日」に読まれるべきテキストとして見なされて来た。12節以下「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け』」と呼びかけられているように、「悔い改め」にふさわしいみ言葉が語られているからである。「断食」そして「衣を裂く」ことは、イスラエルにおいて深い悲しみを表明し、罪の悔い改めのしるしとされたのである。ここでの文言には「灰」についての言及はないが、ヨブ記において、理不尽にもすべてを奪われたヨブが、塵灰の中に座っているのを遠くから見た三人の友人は、「遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった(ヨブ記2章12節)」と記されているように、ヨエル書の言葉の背後に、「灰」を被って悲しみを表す仕草が前提とされていると考えて良いであろう。
ヨエル書の2章末尾までの前半部分は、バビロン捕囚以後に語られた預言者の言葉がまとめられていると考えられている。すさまじい「いなごの害(蝗害)」が言及されているが、古代のみならず現代でもこの甚大な被害について、しばしばニュースで伝えられる。それも狭い局地的なものではなく、ユーラシア大陸を横断するような大規模で広範囲に渡るものであることに驚かされる。最初は小さな群れが、ある程度の規模の集団を形成すると狂暴化し、嵐の襲来のように田畑の作物をそれこそ草木一本残さずに、丸裸にして行く。そのような凄まじい被害を、イスラエルもまた、しばしば経験して来たことであろう。「北からの脅威」即ち「バビロニアの侵攻」の有様は、それに比すべき災厄であり、神殿が壊滅させられ、ユダの滅亡とそれに続くバビロン捕囚の憂き目は、蝗害によって全く壊滅された、実り豊かな美しい田畑に準えられたことももっともなことである。
しかし預言者は告げる「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」ここで「衣を裂く」とは、愛する者が喪われた時に、近親者が取る哀悼の意を表する振る舞いのことであるが、それを形式的な儀礼に留めず、心、はらわたにまで及ぼせ、というのである。この国の物言いにも、「腹を割る」「腹をくくる」「腹が据わる」等と、「腹」を巡る表現は数多い。「腹」にこそ人間の中心、真実があるとの理解がそこにはあるが、普段、その真実が隠されており、あ互いに「腹の探り合い」をしている人間の営みも前提にされているだろう。神の前に、隠されている自分のまことがまったく現わされることなしに、恢復や新たな出発は見込めないのである。
私たちは「主に立ち帰る」という呼びかけを聞く時、主イエスが語られたあの譬話を思い起す。かの有名の譬話では、若気の至りで財産の分け前を持って出奔した弟が、案の定破綻した挙句、衣服破れて、身も心もぼろぼろになった時に、父の家を思い起し、帰還する。「主に立ち帰る」とは、この「放蕩息子」の振る舞いを彷彿とさせるが、この譬の本底流にあるのは、懐かしい父親である「神」に対して、「心を引き裂いて」、自分の心、はらわたを余すところなく明らかにすることではないのか。そこを見て、そこに手を伸ばし、そこで出会ってくださるのが、実に神ではないのか。
預言者はこのみ言葉に続けてこう語る「あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ」。このみ言葉から、主イエスの語った譬の「父」の姿が、鮮やかに思い起こされないであろうか。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15章20節)。
「灰の水曜日」の礼拝には、「あなたはもともと土から生まれたので、土に返る、だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい」と唱えて祈ることが慣わし、と言われる。但し、この言葉を人生の「無常観」の表明としてだけ理解することは適切ではないだろう。「灰」にまつわる話で、この国に伝えられている有名な昔話がある。かの「花咲じじい」の説話である。物語の終わりに、おじいさんが枯れ木に灰を播く。すると枯れていた木が一面に花を咲かせる、というのである。草木を焼いて後に残る灰は、決して無用な廃棄物ではなく、古代の「焼き畑」に見るように、新しい作物を育てる肥料となるのである。焼かれて形は失われて、後にはくすんだ色合いの、風に吹き飛ばされる塵灰に過ぎないものが、新しい生命を育む力となる。これもまた「復活」の予兆ではないのか。