「時が来るまで」ルカによる福音書4章1~15節

先週2月22日は、世の中では「ネコの日」とされている。「222」で「ニャンニャンニャン」だからなのだそうだ。解剖学者の養老孟司氏は「愛猫家」として知られるが、猫から学んだこととして「なまけること、手を抜くこと、欲を出しすぎないこと」と答えている。果たして、かの愛すべき動物は、自覚的にそうしているのか、どのように生き残り戦略を身に着けたのか、解剖学者から、生命についての深い洞察を含んだ見解を聞きたいものである。

教会の暦では、去る22日は、今年の「灰の水曜日」、即ち受難節の始まりであった。ユダヤ教の四旬節に範をとって、教会もイースターの40日前からこの期間を守ることになる。すると必ずその日は「水曜日」という巡り合わせになる。受難節を迎えて、この期間を守るにあたって、皆さんはどのような心構えを持たれるだろうか。猫好き解剖学者によれば、猫にも「生き方、身の処し方」があるようなので、私たちなら、どのようなあり方を考えるだろうか。

世に「ルーティン」なる言葉がある。毎日、その都度、必ず行う「振る舞い」のことである。教会の一年の流れもまた、「教会暦」というルーティンに従っている。その最たるものは、一週間に一度、日曜日に礼拝をおこなうことである。この習慣に従い、皆さん方は、今日ここに訪れて、礼拝を守っている。「ルーティン」というと、決まり決まった堅苦しい約束事のように感じられる向きがある、それをしないと何となく落ち着かない、悪いことがありそうな強迫観念にとらわれる、というネガティブな面もあるだろうが、逆にその習慣によって、却って自分が守られている、というポジティブな面もあるだろう。要は、余りに堅苦しく考えないことが大切なのだが、「適度に」、というのが人間にとっては最も難しいらしい、すぐ極端に走ってしまうのが人間である。

こんな話を聞いた。作家の藤本義一氏の文章、『浪華俗世の知恵』中に、こういう一文がある。自分の生い立ちを、職人と商人の血が半々に流れていると記し、祖父は表具師で、遊びと酒をこよなく愛し、小唄が好きだった。祖父の記憶は二、三歳ぐらいの時に途絶えるが、なんとも恐ろしい存在であった、という。朝起きて、大きな音をたてて洗顔し、鏡に映った己の顔に向かって三度大声でさけぶのだという。「オイ!アクマ!」、悪魔!である。まるで自分の中の悪魔を追い出すという風情で叫んでいるようにも感じられる。後に祖母の解説で知るのだが、オは「おこるな」、イは「いばるな」、アは「あせるな」、クは「くさるな」、マは「まけるな」であった、という。昔の上方の職人には、このように一種の “Affirmation(言い聞かせ)”をして一日を始める習慣があったという。

今日の聖書の個所、「荒れ野の誘惑」の物語は、教会の伝統として、受難節の第一聖日に読まれるべきテキストとして位置付けられてきた。マタイ、マルコ、ルカ福音書のいずれかの個所が読まれる。主イエスが「試練」に打ち勝たれたように、私たちも克己して「試練」に負けずに、この期間を過ごせるように、という気合を入れる意味合いは確かにあるが、苦しみに負けずにがんばろう、というだけでは、主イエスの「受難」の意味を矮小化してしまうであろう。「荒れ野の誘惑」の物語において、人間の悩みや苦しみの根もとにある事柄、世の中の問題の根が、象徴的に表されているからである。キリストはこの世俗のわざについては、超越されていた。だから私たちも主に倣って、この世のことには距離を置く、というのではない。この世の煩わしいそのすべての事柄に、主イエスが向き合われたことを忘れてはならないだろう

悪魔が問いかけた3つの事柄は、どれをとっても今の時代でも切実な問題であり、世界の悩みでもある。まず「パン」の問題、世界の深刻な飢餓、そして貧困をどうするか。次に、「富の偏在」の問題。わずか26人の超お金持ちが、全世界のお金の半分を所有しているという。最後に、強い「リーダーシップ」や「カリスマ」の問題、神殿の屋根から飛び降りて見せる、というような超人的な力を発揮すれば、人々はその力に驚き、怖れをなし、従順に従うだろう。この3つの事柄を自分の手の中で、思うがままに自由にすることができるなら、どうなるのか。どうするのか、私たちにとって、いささかスケールの大きすぎる挑戦であるが、これを矮小化するなら、そのまま今、ここに置かれている自分自身の身の処し方の問題ともなる。さすがは悪魔である。人間の一番痛いところ、弱いところをついて、問いかけ、挑戦してくる。

人間の抱える諸問題の中で、「悪」の問題は一番厄介な事柄だろう。聖書において「悪魔」は、あえて人格化されたイメージで語られる。そうしないと「悪」というものが人間には受け止め切れないからである。それは、「悪の軍団」あるいは「悪の総合商社」という強烈に神に反逆し、抵抗する逆賊的風情ではない。人の世のあちらこちら、人間と人間の間、つまり社会をひらりふらりと行き巡って、そこに生きている人間に手を伸ばし、密かに働きかける。今日の物語でもそうである。荒れ野で断食し、苦しむ主イエスに、そっと問いかける。悪魔は実に巧妙である、話題にした3つの事柄はどれも、この世に無用で空虚でどうでもいい観念的問題ではない。「パン」「リーダーシップ」「富」どれも人間世界には当然であるし、それ自体は、決して「悪」ではなく、必要だとみなされるであろう。ところがそれに関わる人間の営み、やり取りにおいて、必要不可欠なものが、利権や競争や支配と絡んで、「悪」を生み出していく。この不可解さ、やっかいさを古代人は感じて、人格化したのが「悪魔」というキャラクターである。

さて、悪魔の巧妙な3つの問いかけに、巧みに答えられた主イエスに対して、13節「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と記されている。このみ言葉は、ルカが独自に付加した言葉である。「時が来るまで」、即ち「ひととき、しばらくの間、またあとで」と離れた、というのである。つまり主イエスは最終試験に及第して、合格となって、卒業して、もはや悪魔と縁が切れた、のではない、とルカは記すのである。嫌なことに悪魔は後で再び戻って来る、とこの福音書著者は予告しているのである。ここに悪の厄介さがある(とルカは考えている)、一度打ち負かし、やっつけたらそれでお終い,もう縁が切れたから心配しなくていいよ,というわけにはいかないのである。ではいつ、悪魔は戻って来るのか。いつだと思うか。後は皆さん、福音書をめくって、各自で捜してください、でやめれば、楽で良かろうが、それでは消化不良を起こすといけない。

「時が来るまでイエスを離れた」と書いたルカは、福音書の終わり近く、22章3節にさりげなくこう記す「しかし、十二人の中のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」。悪魔の再登場である。あの主イエスに働きかけた悪魔が、今一度、弟子のひとりユダに手を伸ばした。彼の裏切りはサタン、悪魔の働きによって起ったと語られる。ユダの裏切りは、彼が金目当てに人を裏切る極悪人だったとか、主イエスから無視されて恨みを抱いていたとか、あるいは主イエスが、革命家としてローマの支配からイスラエルの民を解放する救い主として、一向に立ち上がらないので、イライラし失望したとか、そういうユダの心の中の思いによってではなく、サタンの力、働きによって起ったのだ、と主張しているのである。それはユダでなくても、ペトロでもヨハネでも、あなたわたし、誰でもよかったのだ。

ルカが言いたいのは、私たちの誰にでも同じことが起るということなのである。ユダのことを特別な悪人と考えてしまうことは、自分はユダほどの悪人ではない、という根拠のない安心感につながる。そうではなく私たちの誰もが、悪魔に手を伸ばされて、悪魔の言葉にがんじがらめになりユダと同じになる、という冷徹な事実であろう。「パン」「リーダーシップ」「冨」のことしか考えられず、他に何も見えなくなってしまう。

ある新聞コラムが、ある有名な古典の文章を引用していた。「『大多数の一般民衆は、戦争を憎み、平和を悲願しています。ただ、民衆の不幸の上に呪われた栄耀(えいよう)栄華を貪(むさぼ)るほんの僅かな連中だけが戦争を望んでいるにすぎません』。今も通用しそうな戦争観の持ち主はルネサンス期の人文主義者エラスムスだ。近代初の平和論とされる著作「平和の訴え」で戦争批判を繰り広げた。『いたるところ諸国民によって締め出され棄(す)てしりぞけられた平和の神の嘆きの訴え』が副題」(2月23日付「余禄」)。「平和の神の訴え」は、人間たちから閉め出され、棄てしりぞけられている、とかのユマニストは語る。「パン」「リーダーシップ」「冨」の問題を突き詰めれば、結局わが身のあり方を問うこととなるだろう。「平和」は、指導者、権力者だけの問題ではなく、私たち自身が、問われている事柄でもある。このままだとパンがなくなり、他の国々からばかにされ、国は没落し、貧しくなる、みじめになっていいのか、と悪魔から問われて、どう応答するのか。

主イエスは、飢え渇きの中で、悪魔から同じ問いを投げ掛けられ、その誘惑をどのように跳ね返したかを、深く心に思い巡らしたい。「人は神の言葉によって生きる」、「あなたの神を試してはならない」、「ただ神にのみ仕えよ」。荒れ野で、主イエスが目を向けていたのはただ神であり、神の御心である。ここから十字架への道への歩みが始まる。悪魔に対するために、ここしか見るべきところはない。この主イエスから、どうして目を反らすのか。

かの解剖学者は、飼い猫から「なまけること、手を抜くこと、欲を出しすぎないこと」を教えられたという。猫の方が平和を知っている、私たちはどうか。