2014年10月19日 神学校日礼拝(小林喜一神学生)・説教要約
説教『光の武具を身に着けて』(ローマ13:11~14)
◎10月も半ばを過ぎ、秋も深まってきました。心の落ち着きを覚える季節となりました。私が学んでいる農村伝道神学校も10月7日から後期の授業が始まりました。私はあと半年で卒業することとなりました。
◎今朝取り上げる聖書箇所は、ローマの信徒への手紙13章11節から14節です。ローマの信徒への手紙は、新約聖書においては福音書と使徒言行録の次に最初に来ている手紙であり、また、パウロが書いた手紙の中でも最も長いものです。時期的には、パウロの手紙の中でも最後に書かれた手紙です。この手紙が書かれた当時、ローマは地中海世界の中心地でした。パウロは生涯で3回の伝道旅行をしていますが、ローマの教会は未知の教会でした。その未知の教会に福音を宣べ伝えるために書いたのがこのローマの手紙です。
◎では、今日の箇所に入って行きましょう。まず13:11の冒頭に「更に」という言葉があります。これはどういう意味か。原文では「しかもその上に」となっています。口語訳聖書では「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特にこのことに励まねばならない」と訳されています。「このこと」とは、その直前の「隣人を自分のように愛さねばならない」ことを指していると考えられます。だから、「更に」とは、主イエスによる救いを受けているあなた方はなお隣人愛に励まねばならないけれど、さらに「今がどんな時であるかを知っている」あなたがた、なお一層、隣人愛に励まねばならないと言っているのです。
◎それでは、その「時」とはどういう時でしょうか。この「時」は、ギリシャ語の「カイロス」が用いられています。「カイロス」とは「特別な時」「決定的な時」を表す言葉です。今日の箇所にある「救いは近づいた」「夜は更け、日は近づいた」から、この「時」とは「再臨の時」「終わりの時」「救いの完成の時」だと分かります。そして、パウロは「救いは近づいている」ので「眠りから覚めるべき時が既に来ている」と呼びかけます。この「再臨の時」「終わりの時」が近づいているからこそ「眠りから覚めて」
「隣人を自分のように愛しなさい」、「互いに愛し合いなさい」という隣人愛を勧めているのです。パウロは、この再臨が近いことを切迫感をもって待ち望んでいました。再臨は、この世の救いの完成の時です。
◎しかし、現代において、この再臨の時、終わりの時は遅いと感じられるばかりか、いや、来ないのではないかとも感じられます。現代人にとって「救い」とは何でしょうか。現代において「救い」はあるのでしょうか。このことを神学生同士で話し合ったことがあります。一人は「現代においても神を感じ、安らぎを得ることができる」と言いました。逆に他の一人は私に自分が救いを感じる時はいつかと問いました。
わたしにとって救いとは何だったのでしょうか。自分自身のことを振り返って考えてみたいと思います。
◎私は1956年に栃木県の県北の町に生まれました。私は小中学校で理科が好きで、将来は物理学者になることを夢見ていました。大学では物理学を専攻し、卒業後は栃木県の公立中学の理科の先生になりました。ところが、教員生活が3年過ぎた頃、精神の病に罹りました。新しく来た校長と意見が合わず、また、様々なストレスも加わったからです。その後、2年間、休職し、復職したのですが、その7年後、再び、病が再発しました。その病が原因で離婚することにもなりました。その頃、出会ったのが、西那須野教会の福本治夫牧師でした。先生は私の悩みを一つ一つ聞いてくださり、聖書の御言葉をもって答えてくださいました。それから2年間、求道した後、洗礼を受けました。同時に教員も辞めました。この病気になって失われた物は大きいものでした。妻を失い、仕事を失い、希望をも失いました。しかし、信仰を与えられました。それは私にとって大きな救いでした。学校を辞めた後、色々な仕事を探しました。そんな時、西那須野教会の後任牧師から牧師になるように勧められました。病気の父を抱えている私は、独学で牧師になる道、Cコースで牧師になろうと考えていましたが、3年前に福本先生のお連れ合いの福本光子先生から農村伝道神学校に行くことを勧められました。農伝は福本治夫先生の出身校でもあります。それで、教会の皆さんに押し出されるようにして神学校に入ったのでした。そのことに神の導きを感じます。つまり、私にとって救いとは主イエスが共におられ、絶望の中でも希望を与えられるということだと言えます。
◎聖書に戻ります。13:11にあるように、今、「救いは近づいている」、つまり、すべての人に天の国、神の支配が近づいている。「夜は更け、日は近づいて」います。「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう」とパウロは勧めています。「光の武具を身に着ける」とは「主イエス・キリストを身にまとう」ことです。主イエスに守られながら、主イエスと共に、主イエスに従って人生を歩むことです。私達キリスト者は、強固な光の武具、イエス・キリストを身に着けて戦っていかねばなりません。