なぞなぞをひとつ、「お皿の上に『9』のひと文字、これはある果物なのですが、何でしょうか」。
幼い頃に住んでいた家は、敷地の周囲にぐるりと「いちじく」の木が植えられていたことを覚えている。隣近所の住宅もみな同じように植えられていたので、はやりだったのか。あるいは戦後の食糧事情が悪い頃、少しでもそれに対処しようというので植えられたのか。そう言えば大して広くもない庭には、他にも柿、梅、山桜桃梅、金柑、ザクロ等々、所狭しと植栽されていたのである。それぞれ売り物になるような果物でなく貧弱な実だったが、それなりにおやつ代わりに美味しく食べていたように思う。但し、無花果は実が熟して裂けるくらいにならないとおいしくなく、熟せばその実目がけて蟻が一斉に木に登って来るので、争奪戦になるのが玉に瑕であった。
水はけがよく、日当たりの良い場所ならよく成長する果樹であり、植えてから2~3年で結実するのもうれしい所である。原産地は西アジアと目され、聖書の世界ではぶどうと並んで最も馴染み深い果物だったろう。「夏の果物」(アモス書)とも呼ばれ、果実の代表格であった。生食する他、乾燥させて保存し、お菓子デザート類の食材としても重宝されたようである。たわわに実るその樹姿は、ぶどう同様、繁栄と豊かさのシンボルともなっていた。
そして、実を食すだけでなく、広々と生い茂る葉は灼熱の日差しをさえぎり、休息や昼寝、あるいは談話の格好の場所ともなったのである。その日陰で涼しい風に吹かれながら談笑することが、イスラエルの人々にとってはこの上ない息抜きだったろう。そればかりか、そこは快適な場所であるから、そこを真面目な議論や学びの場として用いられ、そこで祈り、黙想する人も多かったはずである。ヨハネ福音書で、ナタナエルが見ず知らずの主イエスから、「いちじくの木の下にいるのを見た」と言われて驚いているが、その樹の下での過ごし方で、人となりがはっきり知れる場所でもあったのだろう。
今日の聖書の個所は、エレミヤ書中で「いちじく」に言及される預言である。1節「見よ、主の神殿の前に、いちじくを盛った二つの籠が置いてあった」という。バビロン捕囚は数回にわたって行われたとされているので、最初の捕囚の出来事のすぐ後だろうか、まだエルサレム神殿は破壊されておらず、祭儀が行われていたものと思われる。神殿では夏から秋口の頃に収穫感謝祭が行われていたらしいが、「夏の果物」つまり「いちじく」の盛籠が献げ物としてみ前に供えられていたようである。しかし収穫されてからいくらか時を経ているのか、一方の籠のいちじくは腐ってしまっていたらしい。もしかしたら、最初から高をくくって、腐りかけの果実が供えられたのかもしれない。「バビロン捕囚」が既に行われていたのだから、将来への希望を打ち砕かれて、自暴自棄のような信仰的態度に陥って、なおざりな奉献となった、ということである。しかしひとつの籠は、初なりの美しいいちじくが盛られている、対照的なその光景を目にして、預言者は神からの託宣を語り出すのである。
ここで預言者は「いちじく」というイスラエル人にとって極めて日常的な、当たり前とも言える事物を目にして、神の言葉を紡ぎ出していることに注目したい。神の言葉は確かに不可思議で、人間にとって思いがけない告知なのだが、それを告げる当のエレミヤは、なにもない空虚の中から語るのでも、異様で異常な世界を垣間見て、秘め事を口にしているのでもない。常人には何気なく、意味もない情景や事物かもしれないが、預言者はそういう平凡な風景からも神の啓示を深く受け止めるのである。
その道の専門家は、素人が全く問題にもしない、ほんの些細な事象や事物、例えば医師が患者に問診を行って、そこから得られた些細な情報からさまざまな病気の原因をさぐり、いろいろな可能性を検討し、病気を特定して行くように、普通の人間が見過ごしてしまうような小さな事柄からでも、大きく神の啓示として聞くことのできる資質を有していた、といえるだろうか。否、資質や能力というよりは、神に向かい、神と対話し、祈るというあり方が、啓示を受け止める心を開いて行くのではないだろうか。主イエスが「空の鳥、野の花を見よ」といった生きる姿勢にも通じているかもしれない。
エレミヤは間もなく破壊されるだろう神殿に祭壇に供えられた対照的な2つの盛り籠を見て、将来のイスラエルの行方を遥かに見通している。腐った悪いいちじくを神にささげる輩は、神の民の中にもいるのである。自らの罪を顧みず、エジプトと組んでその権力に与して巻き返しを図ろうとする人々である。彼らはいつも権力と利権を我がものにすることしか眼中になく、神のみこころなぞ全く問題にしないのである。だから国の中に不正や腐敗、さらに弱くされた人々に対する呻きに聞く耳を持たないのである。だから腐った果物を神に献じても、何ら痛痒を感じないのである。
しかし、他方、祖国が崩壊するという悲劇の只中にあって、初なりの美しい果物を、神のみ前に献げる信仰心を持つ人々が残っているのである。これは預言者の心を深く慰めたのではないか。6節以下「彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る」。祖国の滅亡を目の前にしつつ、それでも神に目を向け、まっすぐに祈る人々がいる、それが「良いいちじく」に現わされている心である。それはとりもなおさず、彼らに「希望」があることに他ならない。「希望」があるなら人はどこでも生きて行けるだろう。そしてイスラエルの民は、約束の地を与えられており、そこへは神の御手が導くのである。
さて最初のなぞなぞであるが、「9」という数字が、一文字だけ記されている、というので「一字、9」、ということになる。おまけにもう一問、「いちじく」は何語だろうか。一説に中世ペルシア語「アンジール」(anjīr)に遡るとか。難しいことは言いますまい。いちじくは果物・デザートなので、「食後」である。