祈祷会・聖書の学び ローマの信徒への手紙8章1~11節

2016年の「ノーベル文学賞」の受賞者、というよりはフォーク・シンガーとしてよく知られているボブ・ディランの代表曲と言えば、やはり『風に吹かれて“Blowin’ in the Wind”』(1966年)であろう。「彼をひとりの人間と呼ぶまでに、どれ程の道を歩まねばならないのか。

砂の上で休息するまでに、白鳥はどれ程の海を越えねばならないのか。砲門を閉じるまでに、奴らはどれだけたくさんの砲弾を打ち上げるのか。友よ、そう、答えは吹く風の中に、吹きすさぶ風の中にある」(私訳)。何人もの歌手によってカバリングされた、余りに有名な楽曲であるが、その詞の語るところは、現代の世界の情勢をみても、「もはや時代遅れ」ということはできない普遍性を有していると言えるだろう。「奴らはどれだけたくさんの砲弾を打ち上げるのか」と歌われる通りである。

この歌は、「風」がモティーフになっていることは、言うまでもないが、「答えが風の中に」という詞が、何を示唆し、「風」がどのような隠喩を映そうとしているのかは、幾多の議論があるところである。容易に「答え」の出ない、あるいは「答え」などないかに思える不条理な難問を抱え、しかもそれによって悲惨や絶望と決して無縁でない人間の生の現実がある。「風の中」とは、一体どういうことなのだろう。もちろん作者は、自分の感性の中でイメージを膨らませ、それを自分の言葉に包含させているのであろうから、簡単に具体的な意味の固定はできないだろう。だからこそ、その「詞」を受け取る者が、あれこれ自分の中で、自由にその意味を思いめぐらすのも、なかば許されると思う。

ひとつに「風」は、「無」の表象である。するとそれは「むなしい」ということで、単純に考えれば、「答えなどない」ということになろう。また「風」を「風評」とか「風説」という意味に理解すれば、「世間の声、無名の人々の声、沈黙の声」ということで、この世界の中で、おのずと響き渡っている数多くの人知れない、しかし確かに発せられている「声」ということになろう。あるいは「風」を「絶え間なく、続き、終わりがない」というふうに捉えれば、ひとつの結論で分かったつもりになってはならない、繰り返し問い続けるべきことを教えるものだと考えることができるだろう。皆さんは、どう考えるか。

ローマ書8章において、パウロは「肉」と「霊」という2つの側面から、「救い」の問題を語ろうとする。古代ギリシア・ローマといったヘレニズム世界では、「肉」と「霊」という二分法によって人間を理解しようとする傾向が強かったので、パウロもこれに倣ったということだろうか。相手の領分、ふところに敢えて飛び込んで、議論するというのも、一つの作法である。巻き込まれ、同化されるという危険はあるにしても、「虎穴に入らずんば」という故事もある。1947年に採択されたWHO憲章では、前文において「健康」を次のように定義している。「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」。人間の構成要素を、「肉体」と「精神」の両面から考えることは、現代においても、あながち外れた見解ではない。

但し、「肉」と「霊」とを、単純に「身体(肉体)」と「精神(魂)」に当てはめて、「魂の牢獄」としての「肉体」という議論をしているのではないことに留意したい。ヘレニズムの人間観では、「精神(霊)」をより人間の本質的事柄としてとらえる傾向があったので、「精神(霊)」を「永遠のもの」として上位に、他方「肉体」を「一時的なもの」として、より下位に考える傾向があったことは否めない。それがキリスト教会の特定のグループに影響を与え、グノーシス的観念を育んだのである。

確かにこのヘレニズム的な人間論、霊肉二元論には、興味深い点が多くあるにしても、パウロはそういう見地から、人間の救いを語っているのではない。ユダヤ人のひとりであったパウロは、ヘレニズム世界で成長し、その教養を育んだと思われるが、異教的な人間論に傾倒し、その観念の中で試行しているのではなく、やはりヘブライ的な人間観に強く親しみ、そこに立脚して議論を展開していると思われる。

まずヘブライ的思考では、「霊」とは「風」である。人間や家畜等の生き物は、生きている間、絶えず呼吸をしている。そして死ねばその「息」は止まるのである。体験的に、生きている間は、「息」即ち「風」が、身体を出入りしていることを見て取った古代人は、肉体を生かし、生命を保たせているものが、「風」であると理解したのである。さらにこの「風」は生物の身体の中ばかりでなく、広く世界をめぐり、広く吹きわたっており、雲を呼び覚まし、実りのための雨を降らせ、時に吹き払い、干ばつをも生じさせるのである。そういった生きとし生けるものに、大きな影響を与える「風」と「生命」とを、結び付けて考えることは、実に自然だったであろう。問題は、「息」や「風」の発信源なのである。

人間は神によって「土の塵」から取られ、形づくられ、その鼻に命の「息」を吹き込まれて生きる者になったという。そもそもヘブライ人にとって、「霊肉二元論」の思考は無縁なのである。確かに「心」や「魂」を表す言葉はあるが、それらは身体の臓器の一部分を指すのである。即ち、「心」とは「腸」ないし「心臓」であり、「魂」とは「咽喉」を指しているのである。彼らにとって思考の座は、頭ではなく腹であり、生命の座も、息が出入りする首や咽喉という身体の部分なのである。だから心と身体は表裏一体であり、身体が病めば、心も弱くされるし、息(風)が衰弱すれば、身体も力を失うのである。そして息としての「風」が身体から出て行き、元の出どころである神のもとに帰れば、身体は土の塵に戻るのである。

このように、旧約において「霊(精神)」は、人間に本来的に備わる能力や資質ではなく、外から恵みとして与えられる賜物として理解できる。この章でパウロは、自分の努力で自分の救いを成し遂げようとすることが、「肉」と呼ばれるものであり、主イエス・キリストの恵みと神の愛、そして聖霊の働きに自らを委ねることを、「霊」と呼んでいるのである。5節以下「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」と彼が言うように、ここには著者自身の人生経験が、強く反映しているのではないか。彼は、律法に精進することで、平安を得ることはなかったのである。

『風に吹かれて』の歌詞について、作者のディランは、1962年に雑誌「シング・アウト!」に、興味深いコメントを記している。「この歌についちゃ、あまり言えることはないけど、ただ答えは風の中で吹かれているということだ。答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている。ヒップな奴らは『ここに答えがある』だの何だの言ってるが、俺は信用しねえ。俺にとっちゃ風にのっていて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず理解されず、また飛んでいっちまう。世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ」。どうやら、かのノーベル賞作家は、「風」は人間の外側からもたらされる、一種の啓示(預言)のようなものとして考えている節がある。それに「吹かれなければ」、真実は分からない、ということであろうか。