子どもの祝福礼拝「主の言葉に従って」創世記12章1~9節

今日は、「子どもの祝福」全体礼拝なので、一冊の絵本を共に味わいたい。『ぐるんばのようちえん』、この国の絵本の中では、「古典」と呼んでも差し支えないような馴染み深い作品である。きっと皆さん方も読まれたことがあるだろう。西内ミナミ文、堀内 誠一画、この両者の手になり1966年に世に送り出された絵本だが、今もなお愛され、読みつかれている。その理由は、物語のモティーフが極めて現実的、普遍的な事柄にふれているからであろう。

「ぐるんぱ」は、ひとりぼっちの大きなゾウ、友達もなく、さみしくて毎日泣き暮らしていた。他のゾウたちはこのままではいけないと、ぐるんぱを綺麗に洗って、町へ働きに出す。ところが身体の大きなぐるんぱは、どこで働いても失敗ばかり、ビスケットやさん、食器工場、靴屋さん、ピアノ工場、自動車工場等々。ぐるんぱはどこでも、張り切って一生懸命に働くのだが、いつも空回り、作るものが大きすぎる。その度に雇い主から「もうけっこう」と宣告されて、ぐるんぱはしょんぼり、自分の作ったものを抱えて、出て行く。

この絵本には「ひきこもり」、「生きづらさ」、そして何より「成長」や「自立」という、私たち自身が誰しも抱える人生の課題が語られている。しかし、60年代も半ばに、すでにこうした問題意識を持った絵本が世に出されたことに、驚きを覚えるのである。ついには、ぐるんぱは自らの生きる場所を見出し、ふさわしい働きの実を得るのだが、彼をして自分の足で歩み出させたものは、一体何か。これについて、皆さんはどう考えるだろうか。

ひとつは分かりやすい。仲間たちの励ましや応援、サポートである。彼の様子をわがことのように心配し、何とか手助けをする人々の働きがある。彼のくさい身体を洗い、広い世界へと押し出すのである。しかしそれで何とかなり、自然に上手く行くかと言えば、やはり挫折の連続、がんばりや努力の空回りである、一生懸命課題に取り組み、自分なりに結果を出そうとするのだが、生み出されたものは、役立たずで、できそこない(にみえる)なものばかりであった。それを背負って、ここでもない、あそこでもないと転々とするのである。そういう人生の歩みの中で、決定的な方向付けをするものに出会う。それは何か、皆さんはどう読まれるだろうか。

また創世記から話をするが、今日の個所は、これも有名なアブラハム物語の序章である。原初史に続き、イスラエルの父祖たちの歩み、歴史が語られる。その始まりは「アブラハムの旅立ち」と題される、父祖たちの人生の旅の端緒を記す個所である。聖書の民、イスラエルの人々は自分たちの先祖を、家畜を連れ、全財産を携えてメソポタミア地方を遍歴する、遊牧民のひとりと考えていた。だからアブラハムは「牧父」あるいは「族長」と呼ばれ、自分たちの「ルーツ」として尊敬したのである。現在、定住政策のためにその数は極めて少なくなったが、今でもヨルダンの砂漠には、アブラハムのような生活を営む遊牧民、ベドウィンが黒い山羊の毛を織って作られた天幕を張って暮らしている。

元々、アブラハムの父、先代のテラはカルディア、今のイラク周辺で生活していたようだ。それがパレスチナ周辺に居場所を定めたのは、アブラハムが始めであったという。もっともカナン(パレスチナ)を目指して出立したのは、先代のテラであったのだが、途中のハランまで来て、そこで生涯を終える。そこから、アブラハムの物語(12章以下)は始まるのである。

家畜を連れて生活する人々にとって、「旅の空」は人生の営みそのものである。家畜の食べるえさとなる草と飲み水を求めて、移動を続ける必要がある。皆さんはどうか。「旅の空」に暮らす生活をしてみたいと思われるか。コロナ禍の頃に「ワ―ケーション」や「地方への移住」がよく話題となっていた。移動しながら仕事、趣味、遊びを同時進行、並行して行う生活の仕方である。現代の「ノマド」(遊牧民)的生き方である。生き物の家畜の代わりに、パソコンとスマホ、ネット環境さえ備わっていれば、これらを連れて、どこでも生きられるではないか。但し、コロナが過ぎたらまた元に戻った感があるが。一つ所に腰を落ち着けて生きなければ、あてどもなく転々とするなど不安ではないか、途中でどうなってしまうか分からないではないか、と言われる方もあろう。

もちろん古代でも、行く先、向かう先の「情報」がまったく皆無というわけではない。遊牧民仲間の噂話、旅人たちとの交流によって得られた話題等で、ある程度の目星はつけることはできよう。行き当たりばったり、どうにかなるさ、出たとこ勝負で、全く勝算が無かったら、すぐに生活に行き詰まり、生命を失うことになる。まして先住民や遊牧民仲間との間の摩擦はできるだけ避けねばならない。草場、水場の使用について、細かに折り合いを付けながら、融通や妥協、交渉しながらの歩みなのである。掟破りをすれば相応の仕打ちを受ける。「旅の空」とはいえ、人生や生活に巧みな知恵が必要とされるのである。

ではアブラハムが、カナン、今で言うパレスチナに行こうと旅立った理由は何か。その時すでに齢75才であったという。確かに自分の父親がカナンに行こうとして、途中で身罷ったのである。その遺志を継いで、というのは分からぬでもない。ところが聖書は、全く違う理由を語るのである。その理由とは、1節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。云々』。そして4節「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」というのである。これをどう受け止めるか。

「主の言葉に従って」という旅立ちのきっかけを知ると、私たちは混乱する。「主(神)の言葉」に従ったとはどういうことか、そもそも、神は私たちにどのような仕方で語りかけ、み旨を告げられるのか、それ以前に、そもそも神が語る、などということはあるのか。それは単に思い込み、悪く言えば、錯覚や虚偽、幻聴ではないのか。この世的には「神の言葉」を聴くとは、異常で、異様な事柄のように感じられるし、まして「宗教」ならば、それはマインド・コントロールであり、騙されているということではないか。

最初に紹介した絵本を思い起そう。うまく生きられず、生きづらさを抱え、できそこない(に見えるのもの)ばかりを持って、しょんぼりを増し加え、落胆しながら歩んでいるぐるんぱに、12人の子どもたちを育てるお母さんが、声を掛けるのである。「いそがしい、ああいそがしい、ちょっと、すいませんがね、子どもと遊んでやってくれませんか」、忙しさでどうにもならない、困っている見知らぬ人との出会い、そしてそこで投げかけられたひと言、ことばによって、ぐるんぱの歩みは、まったく変わるのである。自分の大きな身体を使って、子どもを遊ばせ、自分が作った大きすぎるものが、ひとつも無駄にならず、子どものための楽しい遊具となり、ついに「ぐるんぱの幼稚園」が開かれることになるのである。

中でも、彼の焼いた大きな大きな「ビスケット」は、子どもたちがいくら食べても食べても食べきれない、「ビスケット、まだたくさん残っていますね」、と語られて物語は閉じられるのだが、ここに主イエスのなされたパンの奇跡を思うのは、読み込み過ぎだろうか。主イエスは「5つのパンと二匹の魚」で大勢の人を満腹にし、パン屑の余りを集めると、「十二のかごに一杯になった」と伝えられているのである。

それにしても、あのお母さんの一言、「ちょっと子どもたちと遊んでやってくれませんか」は、自分の人生になぜか生じてきた、いろいろな出来事の記憶を思い起こさせるのではないか。後で思い返すと、あのひとこと、誰かのこの言葉によって、うながされ、突き動かされ、今までと違う方向に向かわされ、新たな出会いが与えられた。その時は当惑や疑いや不信があったが、今に思えば、自分の人生にとって決定的な、なくてならぬ呼びかけであったというような。そういうものが「祝福」とか「恵み」と呼びうるものであろう。そういう賜物である「み言葉」を、神は、このあたりまえの人生の日々、日常にもたらされるのであると、アブラハムの生涯を通して、深く思わされるのである。