ある放送局のアナウンサーが、悲しそうな顔でこう語っていた。「僕の誕生日は12月26日なんです。生まれてから一度も、自分の誕生日を祝ってもらったことがありません。いつもクリスマスでごまかされるんです」。生まれてきた人には、皆、誕生日がある。親が最初に子どもにすることは、名前を付けること、「命名」である。我が家に子どもが誕生した時に、知らせが来て、取り急ぎ病院に駆け付けた。我が子との初の対面となったが、まだ名前が付けられていない。足に付けられたタグには、「たなかあかちゃん」と記されているのみである。これでは「物」と一緒で、呼ぶに呼べない。「おい」とか「ちょいと」とか「あなた」では、どうも様にならないし、大いにとまどうことしきり、名前の持つ重さ、大切さが実感された。
今日の聖書、あるヘブライ人の家庭に、男の子が生まれた。この赤ちゃんには「モーセ」と言う名が付けられる。古代では、生まれてきた子に名前を付けることは、親がこの子を育てるとの決断を表明することでもあった。親が皆の前で子の名前を呼ばなかったら、ゴミ捨て場に捨てられる運命である。名前を呼ぶことで、その子は生きることができ、いわば「もの」ではなくなり、他と区別され、かけがえのない、ただひとりの人となる。
聖書の神は、実に呼びかける神である。人間が呼びかける前に、先に呼びかけて下さるという。その時には、「おい」とか「ちょいと」とか「おまえ」とかではない、そんな呼び方をするなら、ただの他人である。「まさひろ」「さだはる」とちゃんと名前で呼んでくださるのである。でも小さな赤ちゃんの時は、呼ばれても気づかないかもしれないではないか、と言われるだろうか。しかし繰り返し呼びかけられることで、心が育ち、ついに呼びかけに応えることができるようになる。人はみな、神に呼びかけられる時が必ずある。モーセもそうであった。そのときには「はい」と答えられるように、心を真っすぐにしたい。
さて今日の聖書個所は、出エジプト記2章である。出エジプトの立役者であるモーセの誕生、そして生い立ちが記されている。特に今日のテキストでは、彼の「命名」についての背後の物語が語られている。人の名前というものは、単なる個人識別の記号ではなく、その人の命と密接につながっていて、その人自身を育み、形作る働きをする。だからあまり大仰で大層な名前を付けられたり、逆に軽すぎる名前を付けられると、その本人がつらい思いをする。お年寄りにお名前を伺うと、本当にお一人お一人、そのたたずまいに「ふさわしい名」であるとつくづく感じさせられる。好評を博したアニメ映画『千と千尋の神隠し』で、こういうセリフが出て来る。「湯ばあばは、名前を奪って支配する。ほんとうの名前を忘れたら家に帰れなくなる」。この短い何気ないセリフの中に、人間の歴史の中で、「名前」がどのような役割と働きを持ってきたのかが、鋭く切り取られている。そしてかつても今も、「名前を奪う」という暴力的なやり方が世界を支配している。戦争のときは、真っ先に名前が奪われて、ただの「もの」になってしまう。ただの「もの」でなければ、生命を奪うことはできないのである。
出エジプトの立役者は、その名を「モーセ」と名付けられる。名前にはみな「意味」が、込められている。「モーセ」と言う名前は、古代エジプトの言葉に遡るとされている。その意味は「誕生・生まれる」あるいは「生まれた子」、赤ん坊にふさわしい名前であろう。エジプトでは、「太郎」や「花子」のようなごく一般的な命名であるらしい。同時に、ようやく生まれてきた、待ちに待って誕生したという風に、生まれ出た小さな生命に喜び、感謝し、その幸を祈願するというおめでたいニュアンスを持っている。
ところがヘブライ人は、その名前の持つ音を、ヘブライ語として聞き、ヘブライ語として再解釈し理解しようとしたのである。10節「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げたのですから』」。「引き上げる、引き出す、マーシャー」。こういう所に、古代の文学の語り手の技巧を読み取ることができる。ミステリで、前もって犯人への手掛かりやトリックの種をさりげなく布石をするようなものである。「水の中から引き出す」、皆さんは何を思い起こされるか。出エジプト記のクライマックスともいうべき場面は、「紅海渡渉」を置いて他にない。目の前に大波でうねる海原があり、イスラエルの民は、実に、この水の中を引き出されて、救いへと導かれたのである。奴隷の呻き、苦しみの叫びを聞かれる神は、モーセの誕生の前から、すでに、大いなる救いのみわざを、既に準備、計画をされていた。しかし人は、悲しいことにそれと気づかない。神がすぐそばにおられても、それと気づかない。神の名を「インマヌエル・神、共にいます」とはよくも言ったものだ。すぐそれと知れるから「インマヌエル」なのではなく、こんなところにも神がおられた、人は神のみ手を知って、己の無知を恥じるのみである。
「水」は、人間の生命に必要不可欠なものには違いないが、同時に恐るべき脅威でもある。ノアの箱舟の「40日40夜」ではないが、最近は、線状降水帯による強い降雨によって、ここそこで繰り返し大水の脅威にさらされる。それ以上に、12年前に起こった東日本の震災によって、津波の大きな濁流が、人々に襲い掛かったことは、今も記憶に生々しい。聖書の人々にとって「水」は両極の意味を持っている。「生命を育むもの」、ばかリでなく「生命を容赦なく奪うもの」でもある。だから「水」は、聖書の人々にとってまず「死」の象徴である。大江健三郎の小説『洪水は我が魂にまで及び』はその題名を旧約ヨナ書2章から採っている。6節「大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく」。3.11を知っている私たちには、このみ言葉がいかにリアルに現実を物語っているのか、驚くのである。「大水は身体ばかりでなく、魂(ネフェシュ)までをも覆いつくした」。モーセは「水から引き出された」。まさしく死から引き出された。ここに神の救いのみわざが示されている。
神はどのように、この死に満ちている世界に、救いを行われるのか。このテキストを「赤ちゃん救出リレー」と呼んだ牧師がいる。ひとりの赤ん坊の、小さな生命のために、いつくもの手が動かされて、働いて、バトンタッチされて、「救出」劇が遂行された、というのである。まず第一走者は、ヘブライ人の助産婦たち。彼女たちは、ファラオ、上からの命令に従わなかった。生まれ出た小さな生命を殺さなかった、否、殺せなかった。それを責められると「エジプト人と違い、ヘブライ人の母親は健康で、自分たちが行く前に生んでしまいます」、見事な大嘘であるが、そこに神の「大きな祝福」があったと伝えている。次にモーセの母親、「その子がかわいかったのを見て、三カ月の間隠しておいた。しかしもはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、その中に男の子を入れ、葦の茂みの中に置いた。
さらにその赤ん坊の姉、後の女預言者ミリアム、心配して遠くから見ている。エジプトの王女が籠を拾ったのを見て、すかさず言う「この子に乳を飲ませる乳母を呼んでまいりましょうか」。なんと機転が利くことか。そしてアンカーにバトンが渡る。「その子は王女の子になった。王女は彼をモーセと名付けて言った。『わたしが水の中から引き上げたのだから』」。
そこに居合わせた人々、たまたま居合わせたひとり一人、それと知らず生命のバトンを受け取り、担った人たちは、皆、女性たちである。権力をかさに政治を左右し、軍事力で人々を制圧するような力は、誰も持っていない。「非力」である。非力ではあるが「無力」ではない。人間は今の自分にできること、しかできない。彼女たちもできることしかできなかった、しかし、そこに偶々居合わせ、小さな生命に目を留め、そのためにできることをしたのである。その生命のバトンがさらに手渡され、「水の中から引き上げ」られた子、モーセを今度は逆に引き出すのである。神の救いのみわざの、種明かしを見るようである。
先週の「子ども祝福礼拝」に出席していたお子さんのひとり、ともひろさんは、説教が終わった後、ぽつりこうつぶやいたそうである。「つまり、むだなものがひつようってことだよね」、それを耳にしたある方が、私に伝えてくれた。何と鋭く聖書の話を聞いていることか、核心を突いたメッセージを心に受け止めていることか。私たちは、無力で無駄なものは何の足しにもならない、何もこの世界を変えはしない、と思っている。力こそすべて、力のない正義は、空しい、と。しかし、神は「ことば」によって、世界をお創りになったのである。「ことば」という、形がなく、無力で無駄にみえるものを、あえて用いて、新しい生命を生み出されるのである。
死んで当然の小さなの生命、そこにたまたま居合わせた小さな人々がいて、そのひとり一人が、小さな働きをすることを通して、神はそのみわざをあらわにされるのである。神のひとり子、主イエスが誕生された、ひとりの赤ん坊として誕生されたことは、そこに居合わせるためである。居合わせる、つまり「共に」というあり方によって、私たちを水から引き上げ、みわざのために引き出される。赤ん坊は非力である。しかし決して「無力」ではない。その非力な赤ん坊に、私たちは生命へと引き出されるのである。私たちもまた、水から引き上げられて、新しい生命に生きるようになったのではないか。