つい最近、アメリカでこんなニュースが伝えられた。市場で購入した生木のもみの木、家に運んでクリスマス・ツリーの飾り付けをして、クリスマス当日を待つばかりになった。ところが夜、静かになり、部屋のライトが消されると、微かにツリーが揺れ動くことに家人が気付いた。その不思議を調べてみると、そのもみの木には、先住者がいたのである。それは何だったか、小さなフクロウが住んでいて、不幸にも幹の奥に隠れたまま切り出されて、運ばれてしまったのだろうという。このフクロウは元の森に戻されたようだが、新しい住まいには寛げたろうか。フクロウは滅多にはいないが、クリスマス・ツリーの生木にくっついて来る小さな生き物は、種々あるらしい。ある家では、カマキリの巣がついていたらしく、部屋の暖房のおかげで、クリスマスにたくさんのカマキリの赤ちゃんが誕生した、というのである。ところがこの家の主人は獣医で、このクリスマスに誕生した赤ちゃんを喜んで、大切に育て始めたという。クリスマス・プレゼントにも、いろいろあるものだ。
あまりもらいたくないクリスマス・プレゼント・ランキングというものがある。その筆頭は何だと思われるか。それは男女とも、「服」なのだそうである。やはり自分の身にまとうものは、色、デザイン、素材等、直に着る人の好みに左右されるので、好き嫌いがはっきりとするので、成程と首肯づけるだろう。ところが、人間が生まれて、親や家族、友人等、誰かから最初にもらうプレゼントは、裸の身体を包む「衣服」ではあるまいか。聖書を繙いてみると、最初の人、裸であったアダムとエバに、神は皮で作られた衣服を着せられたという。楽園であるエデンの園を出てゆく彼らへのプレゼントであるかの如くである。
さてこのクリスマス前に、こういう新聞記事を読んだ。「『既製品の産着では大き過ぎるから』と、ボランティアの人々が手縫いしている様子を本紙でも時折目にする。お母さんのおなかで亡くなった後に取り上げられた赤ちゃんの服だ。死産の要因はさまざまにある。でも、誕生を待ち望んできた家族の『抱っこしたい』という願いは普遍だろう。未熟な体を傷付けずに包めるよう、素材は柔らかなガーゼであることが多い。この粗く織った綿布をなぜ『ガーゼ』と呼ぶのかについては諸説あるようだ。日本にはドイツから医学用語として入ったが、さらにさかのぼるとパレスチナの「ガザ」に行き着く、との説が有力とか。かつては織物が盛んだった港街。さもありなんと思う」(11月28日付「滴一滴」)。
そういえば思い出すが、赤ちゃんの産着は、確かにガーゼで作られている。小さな新生児の皮膚を傷めない、やわらかでデリケートな素材の布、また痛々しい傷口を覆う布として用いられる「ガーゼ」が、あの「ガザ」と繋がっている、こんな事実を知るだけでも、現在のガザを取り巻く状況のむごさを、思い起こさずにはいられない。
今日のクリスマス礼拝は、まだアドヴェントのさ中である。まだ「待つ」時なのである。だから聖書の個所も「旧約」となる。テキストは「ゼカリヤ書」、この小さな預言書もアドヴェントで必ず読まれる聖書個所である。ゼカリヤは、バビロン捕囚後に活動した預言者とされている。バビロニア帝国がペルシア帝国によって滅ぼされると、覇権王キュロスは、捕囚のユダヤ人たちに故郷への帰還の詔勅を出し、エルサレムに新しい神殿を再建するために資金提供をすることを申し出る。ところが捕囚後50年余を経過し、バビロンに生計を得て、すでに生活の根を下ろしていた捕囚民の腰は重く、なかなか故郷に帰還しようとはしない。詩137編に、捕囚となった人々の心を今に伝える歌が記されている。彼らはバビロンで、自分たちの故郷の歌を、大声で歌えなくなってしまっている。現地の人間にからかわれるからだ。「バビロン人に同化した方が、よほど暮らしやすい」、彼らの正直な思いであったろう。
「クリスマス・キャロル」を歌うことで健康的になることが分かってきた。古くから親しまれてきたクリスマスの定番曲を人々と一緒に歌うことが、より良いウェルビーイングに繋がり、さらには、うつ病の症状も軽減するそうだ。懐かしい歌を歌うことで、持続的な喜びが生まれ、通称・幸せホルモンが生成され、認知症の患者が失われた記憶を思い出したり、パーキンソン病の患者の身体の動きが改善する可能性を秘めていることが新たな研究により判明した、という。これまでも「歌」の効用としてよく知られている。
しかし捕囚された人々は言うのである「自分たちの歌を堂々と歌えない」。丁度、クリスマスに歌がなかったならどうだろうか。モチベーションは大いに下がるだろう。歌を喪い落ち込んだ人々の心をどうしたら鼓舞することができるか、新たに出発しようとする心をどうにか励ましたいと、この預言者は8つの幻、「ヴィジョン」を語り、人々に気力と希望とを膨らませようというのである。ヴィジョンの提示によって、モチベーションを上げようという、非常に現代的な発想がゼカリヤにはある。
預言者は11節にこう呼びかけている「バビロンの娘となって、住み着いた者よ」、かつてはエルサレムの都、そこに住む民は「シオンの娘」と呼ばれた。かつては、シオンの丘の上に、高く美しく装われる町がエルサレムであったのに、今ではその町の住民は、砂漠の茶色の町、低地バビロンに暮らす捕囚民となった。「かつて、わたしはお前たちを吹き散らした」。神によって、聖書の人々はごみのように吹き散らされた。彼らにとって、正直な所、心の底にあったのは、自分たちは神に捨てられた、ごみくず同然の存在だという投げやりな思いであった。選民、神に選ばれた民、という高い誇りは、それが踏みにじられた時に、却って重く自分たちにのしかかったのである。
「命を保つ」、ということだけなら、雨風をしのげる場所を確保し、水や食料を手に入れ、その日その日を忍耐して、しばらくは何とかなるかもしれない。だが、つながりをまったく失ってしまった時に、人は自分が一人取り残されたように、捨てられたように感じるのである。つながりの中で生きるのが人間である。それが風に吹き散らされるもみ殻のように、ばらばらにされたというのが「バビロン捕囚」である。そして人間のつながりの根本に、中心にあったのが、神とのつながりであったのが、聖書の民なのである。今、神とのつながりが失われてしまって久しい、これは聖書の民の心であるばかりか、私たち自身のこころであるだろう。
バビロン捕囚に至るまで、聖書の民は、常にまっとうに生きてきたのではない。さまざまに神の前に罪を犯し、過ちを繰り返しつつ、歩んできた。その度に神に叱られ、痛みを負い、悔い改めてゆるされて生きたのである。神とつながっていることで、立ち帰り立ち直ることが出来た。それは神殿という目に見える形で、神が共に居られることを実感できたからである。ところが今、懐かしい故郷の神殿は全く打ち崩されて、異教の町で、異教の神々のいます、よそよそしく厳めしい巨大な神殿の間に、細々と暮らす身の上なのである。もはや私たちの神はおられない、私たちは見捨てられた、何の値打ちもない。バビロンに暮らす聖書の民の一番の問題はそこにあった。そこにゼカリヤは、神の言葉を告げるのである。
14節15節「わたしはあなたのただ中に住まう」。「住まう」とは、「生きる、さらには誕生する、生まれる」という意味を含む言葉である。さらに「住む」という漢字は、火を灯す燭台のかたちが元になっているそうである。人が住んでいれば、明かりが点されるから。古代イスラエルでは、人々の生活の真ん中に、神の灯りが点されるのである。小さな礼拝場所、神の幕屋には、いつも小さな灯が、終夜、点されていたという。その小さなひとつの光は、神が確かにいますという徴であり、自分たちの生きる場、生活の只中に、共に生きてくださっているという徴であった。その光をまた点そうと言われるのである。
最初に話しした新聞記事はこう続く「いまは戦闘の地で、ガーゼどころか水も食料も燃料も枯渇している。数日前に今回の軍事衝突では初の一時休止に入ったものの、依然多くの命が脅かされている。中でも産前産後の女性と赤ちゃんほどか弱いものはない。休止直前には、保育器の外では永らえられない新生児たちが電力の絶えた病院からエジプトなどへ緊急搬送されたニュースもあった。ガザ地区では毎日180件ほどの出産があるという。麻酔なしでの帝王切開、がれきの中でのお産、早産、死産、それ以前に当然、流産も増えたと伝わる。特大のガーゼはないものか。心身から血を流す親と子をくるむための」。
ゼカリヤの短い託宣の中に、「わたしはあなたのただ中に住まう」という神の言葉が二度繰り返される。そして「主はその聖なる住まいから立ち上がられる」とのみ言葉をもって、章句は閉じられる。私たちが生きているのは、傷を包み、血を流の傷口をやさしく覆って癒す、特大のガーゼはないものか、と嘆き悲しむ世界である。その世界に住もうと言われる神がおられる。そして粗布にくるまれて飼い葉桶に来られた、み子がおられる。私たちの場所に、神は生きておられることを、心に刻みたい。そしてその幼児は、そこからみわざを行なうために、立ち上がり、歩まれるというのである。神はガーゼを拡げようとされている、その布の一片に、手を伸ばしたい。