「もはや愛に従って」ローマの信徒への手紙14章10~22節

こんな話題を耳にした。「河豚(フグ)の卵巣の糠漬け」は、石川県の郷土料理であるいう。フグの中でも卵巣は最も危険部位として知られ、一匹でも多くの人を殺めるほどの猛毒を持つので、ふぐ調理師は鍵付きの箱に入れて厳重に管理し、専門の業者に処理させる。その部位を食べるのだという。卵巣を3~5か月ほど塩漬けにしたあと、糠味噌樽の中に漬けておく。すると、糠味噌の乳酸菌による分解で毒が少しずつ減り、3年後にはすっかり美味しい糠漬けになっているという。こんなに高度な技術が江戸時代からすでに培われていたというから、フグ毒も恐ろしいが、人間の食べ物についての貧欲さには舌を巻く。何でもかんでも食べなければ生き延びて来られなかった人間の性なのだろうか。但し、なぜ無毒化されるのか、そのメカニズムは今もよく分かってないらしい。皆さんは、食べたいと思われるか。

こんななぞなぞがある。「宇宙に行くと食欲がなくなる、どうしてか」。答えは「空気(食う気)がなくなるから」。ではこういう問いはどうか、「空気をパンに変えることができるか」、これは可能であろうか。福音書の「荒れ野の誘惑」の物語では、悪魔、サタンが断食をして空腹の主イエスに問いかける、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」、この荒れ野でのサタンの問いは、現代でも、人間にとって最も切実で深刻な問題、課題のひとつであろう。そこら辺にいくらでも転がっている無価値のものを、生きるためになくてならない糧に変えることができれば、人間にとって最大の福音である。

「空気中に大量にある窒素を原料にアンモニアを作る技術が確立したのは1911年のことだ。フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュという2人のドイツ人化学者が開発した技術は『ハーバー・ボッシュ法』と名付けられた。人類は窒素肥料を大量かつ安価に手に入れられるようになった。『空気からパンを作った人たち』とも呼ばれる2人は後に、ノーベル化学賞も受賞した。この技術は今でも使われ、空気中から大量の窒素が地上に供給されている。食料事情の改善には大きく貢献したのだが、その副作用が顕在化してきた。海に流れ出した窒素は富栄養化を招き、赤潮などの原因となる。地下水に入り込み、健康被害が出ることもある。ある種の窒素化合物は二酸化炭素の100倍も強力な温室効果ガスだ。窒素の循環を激しくかき乱したことで起こる環境問題は深刻だ」(3月7日付「雷鳴抄」)。

さて今日の聖書個所では、「強さ」「弱さ」が問題にされている。それも「食べ物」を巡ってそれらが取りざたされるのである。あるものを食べたら、「強い」とされ、食べなかったら「弱い」とされる、というのである。世の中にはいろいろな食べ物があるし、人間はこれまで生きるために何でもかんでも食べてきた歴史を持つが、それで「強い、弱い」が議論になる、とはどういうことか。

古代という時代は、人間の生活や営みのすべてが、宗教性との関連で理解されていたことが、現代と異なる点である。その典型的な観念が「穢れ」である。現代の私たちは、「衛生」といった見地から手を洗い消毒する。清潔にしなければ病気になる、という疫学的発想が身に付いているからである。古代人もまた手を洗った、それは「衛生」ではなく「(宗教的)不浄」の観念から手を洗ったのである。実際に、汚れやウイルスが除去されるかどうかは、全く問題ではなく、手を洗わなければ「穢れ」がつきまとうから、という宗教観念が支配しているのである。

多くの場合、「穢れ」は「食べ物」と密接に関係していた。不衛生なもの、毒のある食べ物は身体の健康を損なうが、「穢れ」のある物を食べれば、目には見えない「穢れ」が、内から生命を蝕んでいく、と信じられたのである。しかも厄介なことは、その「穢れ」は人から人へ感染するのである。今、私たちは「コロナ禍」もひと段落、という安堵の中にあるが、やはり無意識にではあろうが、どこか「穢れ」的な発想が顔をのぞかせる、ということはなかっただろうか。

13節「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」。ここから、食べ物を巡って「裁き合う」事態が、教会内において起こっていたことが理解されるであろう。どんな食べ物が問題なのか。世の中には、一般には食べないだろう、と思うような食品が多々ある。それらを「ゲテモノ」等と呼ぶ向きもあるのだが、人が口にするには、それなりの経緯が潜んでいるものだ。

今日の個所で話題になっているのはどんな食品か、それは「肉」である。なんだ肉か、と思われるか。但し「偶像に供えられた肉」である。食べると「身を穢すこと」になるのではないか、というのである。この時代に、庶民はまず滅多に肉を口にはできなかったろう。「戒律」からという理由もあるが、どちらかと言えば「お金」の問題である、肉を食べる機会とは、知り合いや友人のパーティにお呼ばれされる「ふるまい」の時が多い。家で何か祝い事や忌事がある時、まず神に犠牲をささげるのが、古代世界の慣わしである。偶像が口を開けて、犠牲の肉を食べはしないから、祭司にいくらかお礼をして、あとはお下がりの肉を貰って家に帰る。犠牲の動物、一匹分の肉の量は大部のものだから、隣近所、知人友人が招かれ、宴会を開くことになる。何せ冷蔵庫がないから保存できないのである。人々を招いて、今度は招き返されて、人間関係を密なものにしていくのである。古代教会のキリスト者と言えども、全く教会以外の人々と没交渉であったわけではない。異教徒とも付き合って、良好な人間関係を作ることが、必要だったわけである。

ところがこれに「異」を唱える人がいたのである。「穢れ」はどうなる、というのである。そういう人々は、かたくなに肉を食べることを拒絶し、食べる人を非難したのである。勿論、「穢れ」など気にせず食べている人は、食べない人の頑固さ、頭の硬さを馬鹿にする。主イエスご自身が、「すべてのものは清い」、と宣言されたではないか。但し、主イエスはそれに続けて、「食べ物は人間を穢すことはない、食べて便所に行って出てしまうだけだ。ところが人間の口から出る言葉の方が、どれ程人間を穢すことか」。この言葉の通り、強い人も弱い人も、互いに激しい非難の応酬で、教会の人間関係がずたずたになってしまっている、という次第である。

世の中のどこにも、あるいは教会にも、「強い人」とみなされる人、あるいは「弱い人」とみなされる人々はいる。私たちは、いろいろな状態の強さ、弱さ、を抱えている。「強い」から良い、価値がある、というものでも、「弱い」からだめだ、値打ちがない、というものでもなかろう。「強い」「弱い」は人間の目が判断した評価に過ぎない。それは「一つの」評価である。だから「強さ」が「弱さ」の裏返しであったり、「弱さ」が「強さ」の隠れ蓑であったりする。「いつか草が/風に揺れるのを見て/弱さを思った/今日/草が風に揺れるのを見て/強さを知った」、「やぶかんぞう」の花に添えられた星野富弘氏の詩である。怪我をして闘病生活の中で、こういう目を彼は開かれたのである。

「強さ、弱さ」というけれど、本当のその人の真実は、どこに現れるか。22節「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前に、心の内に持っていなさい」。この章句は、この一連のテキストの中でも最も肝心なみ言葉なのだが、いささか訳しにくい。「あなたは、あなた自身によって持っている誠実、真実を、神の前で持ちなさい」。つまり信仰(一番の自分らしさ、信じるというのはまさに、もっともそこに自分があるということだろう)、というものは、誰か人に対してこれ見よがしに表すものではなく、神の前で表明するものだ、というのである。誰かを裁くような時、人は自分の信仰(真実)を相手に押し付けているのである。たとえ人に対して沈黙していても、私の真実は神のみ前にあり、そしてその沈黙を用いて、神は大胆に語られるであろう。

『夜と霧』著者、フランクルの生涯の逸話を、彼自らがこのように語っている。まだ若い時に、彼が書いた小論『医師によるゼールゾルゲ(魂の配慮)』をある友人からもっと膨らませて書くように勧められたフランクルは、いつかそうするべくいつもその小論の原稿を肌身離さず持ち歩いていたという。やがて彼は家族と共に、収容所に送られることになる。そして4日間ではあったが、悪名高い絶滅収容所のアウシュヴィッツで、絶望の時を過ごす。私服や持ち物すべて没収され、身ぐるみはがされた彼は、かの大切な原稿も奪われてしまう。すべてを剥ぎとられた挙句に、中古の囚人服を渡される。そして身に付けた囚人服のポケットに、前に着用していた誰かが記したのだろう短い「メモ」を発見するのである。何と書かれていたか、そこにはこう記されていた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの主である神を愛せ(シェマーの祈り)」と記されていた。そのみ言葉を彼は天啓、まさしく神の言葉として受け取る。新進気鋭の精神医学者としての論考を奪われたことは不幸な事態であった。しかし原稿が失われた出来事をこう受け止めるのである。「理論としてではなく、その自分の手になる記述(ことば)が、真実であるかどうかを、自分の生きるその現場で問われている、自らの人生で、それが真実であることを身をもって確かめるように、人生から(神から)呼びかけられている」ことを深く思うのである。

「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前に、心の内に持っていなさい」。「あなたは、あなた自身によって持っている誠実、真実を、神の前で持ちなさい」。私たちのほんとうは、真実や誠実さは、他人の前に著わされるものではなく、神のみ前に、明らかにされる。そこで神のしかり、それでよい、を聞けるなら、もはや、強いか、弱いかなど、どうでもよい。神によって造られた私たちは、そこでこそ生きられるのであるから。