祈祷会・聖書の学び マタイによる福音書21章1~17節

霊長類の多くが「群れ」を作るのは、外敵から身を守り、安心して暮らすのに適しているからという。人間もまたそうである。「群れ」を作るとなれば、その集団がどのように動き、どのような営みを行うのかが問題となり、その導き手、リーダーの働きや役割が、自ずと課題となって来るであろう。

「こわもてに見えてゴリラは繊細で調整能力に優れるそう。仲間の紛争では少数派にも目配りし、図体(ずうたい)に関係なく平等に接する。愛嬌(あいきょう)もあって、何より仲間の信頼が厚いのは、前に立ち、後ろ姿だけを見せる態度。振り返るそぶりは仲間に不安を抱かせるため禁じ手らしい。(中略)ゴリラと違って、ニホンザルの群れはボス社会だそう。腕力が物を言う」(9月5日付「金口木舌」)。

人間の近縁とされる動物たちも、その生活ぶりやリーダーシップに多様なあり方を示しながら生きている訳だが、密かに「万物の霊長」を自負する人間が、それにふさわしく高尚で高邁なあり方をしているとは、到底言えないだろう。かえって「野蛮」と見なす生き物の方が、「余程まし」、という現実も示されているようだ。少なくとも、「核兵器」を始めとする残虐兵器をせっせと蓄えて(抑止力との詭弁を使い)、悦に入っているのは、人間だけである。今、どこに「神のかたち」の残滓があると言えるのか。

今日の聖書個所は、前半は主イエスの「エルサレム入城」が語られ、後半は「宮清め」の伝承が記されている。前半は、旧約の預言者ゼカリヤの託宣「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」の言葉通りに、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城され、人々は「ホサナ」の歓声で迎えたという逸話である。ろばに乗る王、主とは、「平和の君」を象徴的に表すパフォーマンスである。主イエスの宣教にふさわしい振る舞いとも言えるのはもちろんであろう。

ところがそれに対するように、10節以下の「宮清め」と称される主のみわざは、私たちを当惑させる記事である。最近、ゴミ拾いを目的に活動するNPOが話題となっている。全国の繁華街や通り、公園、神社仏閣の参道等に、有志達に自由に集まってもらい、グループでクリーン活動をしながら仲間づくりをし、楽しもうという趣旨である。さらにゴミ拾いをスポーツ化してタイムや収集量を競い合うゲームとしても楽しもう、との趣旨でも行われるという。

ところが主イエスの「宮清め」は、いささかその趣旨が異なる。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」。弟子ではない、当の主イエス自身が、神殿の営みのその有様に腹を立て、売り買いしている人を追い出し、台や腰掛を覆された、というのである。この行為は、この国の法律では「器物損壊、威力業務妨害」の罪、広義の「暴力」である。しかも売り買いしている業者、両替人などは、甘い汁を吸っているとはいえ神殿体制の中では下っ端も下っ端である。悪の元締めは神殿の奥深く、高見にいて余人の手の届かぬところにふんぞり返っている。末端を痛めつけたところで、何になろう。

さらに神殿は国内外の参拝者、観光客が、常時たくさん集まり、行き来するところである。権力はこうした人々の集団を危険視する。だから何か事あればすぐに鎮圧できるようにいつも目を光らせ、厳格な警備体制を敷いている。ちょっとでも参拝者が業者ともめ事を起こせば、すぐに神殿警備兵が飛んでくる。さらにローマの軍隊も駐屯している。実際、こうした派手な立ち回りができるはずはないのである。

伝承の解釈を巡って、聖書学者たちはいろいろな想像を巡らせている。まず「暴力行為」は実際には行われず、神殿体制の欺瞞(神殿税、献金等)に対する主の批判の言葉の鋭さを、視覚的「イメージ」として増幅するものだった、という解釈。次に一つか二つの台をひっくり返して示威行為をし、神殿警備兵が来る前に、すぐに逃げた。(すると癒しの物語が続かないとの解釈の難点は残る)。さらに後のユダヤ戦争の時の有様(ローマ兵による神殿破壊)が、預言的に先取りされ、主イエスに帰せられて語られた。魅力的と思えるのは、『聖おにいさん』(中村光著)の中での解釈、即ち「イエスが神殿で何かにつまずいてこけて、その拍子に台やテーブルをひっくり返して大騒ぎになった」という説?である。皆さんも、各々の想像の翼を拡げて、心に思い描いてほしい。主イエスにふさわしい振る舞いは何か。

ここで引用されているイザヤ書46章7節のみ言葉「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」。そしてそれに対して主イエスのコメント「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」。ここでの主イエスのこころ、その真意は、次の節からよく汲み取れるのではないか。4節「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」。

神殿が、古の預言者が告げる通りに「すべての人の祈りの家」だとすれば、主イエスの時代のヘロデ神殿はどうであったろうか。預言者は、ユダヤ人ばかりでなくあまねく異邦人にも「開かれた場所」としての神の家を告げたのである。では、そこに宿り、足下に身を寄せる目の見えない人や足の不自由な人たちに対して、人々はどうだったのか。彼らに対して、祈りがささげられる時に、彼らのことを心の一片にでも上らせることがあったのか。「強盗の巣」という言葉が、いささか強く響くので、抵抗感が生じるのかもしれないが、「癒し」の対語として用いられていると理解するなら、見えて来るものがあろう。聖書では、神は何より「安息の主」であり、ご自分の創造された世界を祝福し、あるがままに休まれた方なのである。その神の安息にあずかることが、神殿に詣でることではないのか。神の律法の大半は、人間に対して、何を為すべきか、ではなくて、どのように休み、安息すべきかを教えている。「強盗」は、人の安息を奪う者、その行為として比喩的に理解できるであろう。かの強盗に襲われて倒れていた人を憐み、オリーブ油とぶどう酒を注いで介抱し、宿屋に連れて行ったサマリア人、そのけが人を受け入れた宿屋の主人として、神は癒し人を遣わされる。片や、神殿に仕える祭司長やレビ人たちは、道の向こう側を歩いて行くのである。「暴力」とは、単に力づくだけを意味しない、無関心という暴力があることを、常に心に留め置きたい。