祈祷会・聖書の学び マタイによる福音書23章1~12節

こんな心理学の実験があるという。実験の参加者を二つのグループに分け、A班は「他人に命令した経験」を、B班には「命令された経験」をつぶさに思い出してもらう。その後、自分の額にアルファベットの「E」を書いてもらうという。すると何が起こるか。B班の人は9割弱が正面(相手)から見て「E」と正しく書けたのに、A班は左右逆の「」の字を書いた人が3割強もいたというのである。自分では「E=イイ」つもりなのだが、実は正反対の「」けいなことをした、つまり権力を持つ人は、相手や周りからどう見えるかを考えず、自分中心で行動してしまう傾向があることを示す実験なのだという。相手から見てどうなのか、その感覚が失われるのが、権力を持つということの側面であろう。

但し、権力を行使する場面と、逆に行使される場面が頻繁に切り替わるような立場に置かれると,大きな権力を持っていても、大きな勢力感、つまり一方的に力を行使できるという感覚を低減することが指摘されている。あちらでは力を振りかざしても,こちらでは頭を下げ,を絶えず繰り返し行うことで、その人の自意識が揺るがされ不安定になり、外に対する態度を、慎重に穏健にさせる傾向があるという。大会社の社長さんで、非常に腰が低く、柔和な人がしばしばいるが、その背後の事柄かと思わされる。結局のところ、問題は、権力の大小ではなく,一方的なものかどうかということになる。

今日の聖書個所では、主イエスの時代のユダヤの国の精神的リーダーたち、ファリサイ派、律法学者たちの姿が、いささか戯画的にだが、極めて辛辣に語られ、非難がされている。4節以下にはこう記される「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」。

言葉を尽くして、当時のリーダーたちのいやらしい振る舞いが批判されている。「先生」という用語は「ラビ」であり、もともとは「わが師、わが主人」という意味で、日本語と同じく、これはまさに「上に立つ」、目上の人への敬意を表す言葉だったのである。ユダヤの伝承では、後1世紀から7世紀にかけて、ラビは報酬を一切受け取らずに、聖書とタルムード(律法の解説と適応指導書)によって、ユダヤ人としての生活の姿勢を教えたという。そのため、彼らは口を糊するために別の職業に就いていたとも伝えられる。

新約聖書の時代も、大方はその様であったろうが、やはり主イエスの宣教活動や、後の初代教会のあり方について、「同業者?」ということで、いろいろに議論を仕掛け、うるさく口をはさむということはあっただろう。特に主イエスの共同体の「自由さ」、とりわけ「律法」に対してのゆるい姿勢や態度、罪人とされる人々、また異邦人との付き合いや人間関係のおおらかさに、違和感、不快感を抱いて反対する者たちは多かったであろう。余計なお世話ではあるが。但し、外からだけでなく、教会内にも、そのような狭い考え方をし、批判をするグループもいたことと思われる。

ただ「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」という辛辣な言葉、もっともユダヤの古くからの諺で、「子よ、父の言うことを聞け、しかし父の振る舞いには倣うな」との言い伝えがあるから、この言葉の背後には、人間の普遍的な問題性が見抜かれているとも考えられるであろう。

但し、律法学者は、宗教的な良心から、市井の人々が律法をきちんと守って、規律ある生活を送るように指示し、守るべく指導し、守っているかどうかを監視した。ところが、彼らは律法の専門家だから、日常生活への適用には矢鱈目鱈、詳しいのである。熟知しているとは、換言すれば「法の抜け道」「脱法の方法」をも知り尽くしているということになる。いかなる法も「解釈」されて適応されるものであるから、専門家は表も裏も知ることになるのである。

例えば、安息日には、一切の仕事を止めなくてはならないと規定されている。もちろん遠くに行くことも、禁じられる。日常生活の家の中で、衣食住のための行動範囲くらいしか、歩くことは許されない。遠くの友人宅を訪ねたくても、不可能である。でもどうしても訪ねたい時にはどうするか。専門家はこうしたことに、悪知恵を発揮できるのである。「自分の居場所」から離れなければいいのだから、と安息日の前日までに、自分の靴を友人宅に置いておくのである。すると自分の足の一部とも言える靴から、ごく身近な距離なのだから、許可される、と解釈するのである。

しかし、一事が万事、こんな具合に辻褄を合わせて、こじつけて合法の理屈をこねて律法遵守です、というのはいかがなものか。実に滑稽ではないか。それでも彼らは大まじめくそ真面目に、律法に忠実に生きていると思い込んでいるのである。しかし、安息日の律法の精神、「神の安息にあずかる」ことを、それで全うしたことになるのだろうか。そもそも神は、そういう方法で律法を守ったとする人間の振る舞いをどう評価されるのだろうか。迷惑なのは、そういうリーダーから指図されている人々である。訳も分からず、細々したことであれこれあれこれ口を出され、煩わされ、文句を言われる。そういったやりきれなさが、今日のみ言葉の行間からにじみ出ていると感じられる。

11節「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。このように主イエスは語るが、これを教条的に捉えてはならないだろう。あるテレビの番組で、会社の社長が新入りの社員に変装して潜入し、社員の仕事ぶり、人間関係の様子、自身の評判等を直接見聞きする、という企画があった。普段、社長室に居ては知ることのない、自分の会社の実態に直接ふれて、怒り、笑い、さらに涙する、という内容である。「仕える者」になることで、初めて見える世界がある。それは人間性が円満に豊かに、大きくなるということではない。「仕える者」になることで、ほんとうの喜びが何であるかが見えて来るのである。それは、主イエスが、そして天の神が「今も生きて働いておられる」という単純な事実である。それを知る者は、まさしく生きる喜びを深く味わい、人生の平安、安息を与えられるであろう。