祈祷会・聖書の学び マタイによる福音書6章25~34節

「雑草という草はない」、これは植物学者、牧野富太郎氏の言葉とされている。長い間の植物採集を重ね、丹念にそれらの形態を観察して来た人ならではの言葉だと思う。これが語られたのが、どのような文脈であったのかが、いささか気にかかるところである。この名言の出典についてはこのように伝えられている。作家の山本周五郎氏が、まだ文壇に名を連ねる以前の二十代の頃、ある雑誌の編集者をしている時に、この高名な植物学者に取材したという。そこで若手の編集者がついつい「雑草」という言葉を口にしたところ、植物学者はこう答えたというのである「きみ、世の中に『雑草』という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林という言葉がキライだ。松、杉、楢、楓、櫟——みんなそれぞれ固有名詞が付いている。それを世の多くのひとびとが『雑草』だの『雑木林』だのと無神経な呼び方をする。もしきみが、『雑兵』と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームできちんと呼んであげるのが礼儀というものじゃないかね」。

この逸話には、植物を愛する人の真心が、実によく表されているであろう。人間を始め、すべての事物や物事を、十把一からげにして、一山いくらのように語って、分かったつもりになることに、鋭い継承を発しているように思う。とかくステレオ・タイプな考え方をしがちな私たちもまた、自戒すべきものの見方であるだろう。

さて、今日の個所は、主イエスの言葉の中で、あるいは聖書すべての中で、もっともよく知られているみ言葉であろう。一般に「空の鳥、野の花」と題されることが多いが、こういう言葉を語ることができたのが、ナザレのイエスという方であったことに、いまさらながら驚嘆させられる。空を飛ぶ一羽の鳥、あるいは群れを作り営巣する鳥たちの姿を見て、あるいは風に揺らぐ野の草花を見て、神のみわざとみこころをこれほどやさしく、これ程見事に語る詞を紡ぎ出す方が、私たちの主なのである。このみ言葉を、「何も足さない、何も引かない」で、そのまま声に出して、あるいは心の中で語るなら、それ以上に何の解き明かしが必要になるだろう。おそらくどんな深い洞察も、どれほどの教養に裏打ちされた説明も、余計な雑音になってしまうだろう。

主イエスはこの個所で、「空の鳥、野の花」という風に、具体的にそれがどんな花なのか、どんな鳥なのかを語っていない。それは一つには、このみ言葉を聞く者が、自分の心の中で、もっともそれに似つかわしい花、あるいは鳥を、具体的に思い描けばよい、ということであろう。高名な植物学者の弁ではないが、「雑草」という草はなく、どの草花も一本一本、ひと茎ひと茎、それぞれ違った趣をたたえているのである。皆さんが最も自分の心象風景にふさわしいと感じる草花は何であろうか。自分の生きている身近な周辺に咲く草花、例えば「野ばら、野菊、タンポポ、すみれ、アネモネ」等々、どんな草花でもいいが、要は私にとって最も好ましい、似合いの花が、私の心のどこかに咲いているとしたら、それをまったく思わす知らずに生きている時とは、大分、心の持ち方も変わって来るのではないか。

教会のある姉妹は、この「野の花」のみ言葉から、今、自分が生活している環境に興味を持って調べ始め、身近なところに絶滅危惧種の植物があることを知った。さらに、地域の環境保護団体の方々と出会い、その活動に自分もまた参加するようになったという。もとはと言えば「野の花」が取り結ぶ不思議な縁としか言いようがないが、小さな生命が人の目を開き、さらに大きな出会いを生むことの実例であろう。そのように「野の花」からも私たちひとり一人の生命が豊かにされて行くのである。

さて「空の鳥」もまた同じであろう、皆さんは心にどのような鳥の姿を思い浮かべるであろうか。「ツバメ、すずめ、シジュウカラ、文鳥、カモ、白鳥」等々。これもまた自分の心の風景に最も似つかわしい鳥たちを思い浮かべればよいだろう。因みに福音書記者のルカは、「カラス」を思い浮かべたようである。但し、その鳥は、私たちの身辺で、ごみを漁って集団でギャーギャー鳴き喚く、あのうるさい輩たちではないらしい。パレスチナ辺りのカラスは、「ワタリガラス」と呼ばれる種に分類される。

真っ黒い羽根や鳴き声のせいか、人間にはあまり好まれることのない種かもしれないが、この属の賢さはいろいろに検証されている。人間の出したごみを漁るのも、もっとも安全な時間を見計らって行動しているという。そればかりか餌を取るのに、道具までも使うことがあるという。生態学的実験では、カラスは「3」までの数をちゃんと理解できる知能を有しているそうである。決して愚かで迷惑な鳥と決めつける訳にはいかないだろう。福音書記者のルカが、「空の鳥」を「カラス」に同定したのは、そのような特徴をよく知っていたからかもしれない。

「空の鳥」というと、通常、私たちは「小鳥」を連想する場合が多い。ニワトリやダチョウでは、やはり相応しくないと思い込むからである。確かに「空の」とあるから、天空に羽を広げて飛んでいる鳥ということなら、それらは該当しないであろう。あえてここで主イエスが鳥の固有名を上げずに語っているのは。ひとつに聞く人の想像力に任せるという意図あるだろうが、もうひとつ、パレスチナで非常になじみ深い、いつも当たり前に見ることができる鳥を指しているのかもしれない。

ある学者は、この「空の鳥」を「モモイロペリカン」ではないか、と推測している。ヨーロッパ南東部やアジア南西部、アフリカなどの、内陸の湖や沼、河口付近に住み、くちばしの先から尾の先端まで1.4〜1.7m、つばさを広げると2m以上、体重約10kg、くちばしの長さは約45cmある大型の鳥である。食物は魚で、1日1羽あたり1〜2kg食べる。アフリカでは民家のわら屋根の上に、ちゃっかり巣を作って暮らしている風景が、時折、映し出される。

かつてこの鳥が飛び立つところを見たことがあるが、その迫力は半端ではない。ばさばさと翼をひろげて羽ばたき、長い助走をつけて、えいやっと飛び立ってゆく。こんなすごい生き物がすぐそばにいて、人間と共に暮らし、生きている。主イエスは言われる「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は(神様は)、鳥を養ってくださる」。人間は明日の食べ物や着物のこと、そして労働といった生活のことでいろいろ悩み、あくせくと明日のことを心配する。ところが鳥たちは「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」。それどころが「あなたがたの天の父は(神様は)、鳥を養ってくださる」のである。鳥が「汗水たらして」必死に働いている姿は、見たことはない。しかし、鳥たちはちゃんと生かされているのである。そして主イエスはひとり一人に語られる「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。この言葉に耳を傾けず、戦争を引き起こし、多くの命を、しかも子どもたちの生命を奪う野蛮な行いをしているのが、人間の現実である。それでもそういう人間たちに、主イエスは時代を超えて訴え続けている。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は、鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。