「すべてを失って」フィリピの信徒への手紙3章7~21節

「どら声」という言葉がある。楽器の銅鑼の音のような声、ということであまり心地よくない耳障りの大声というような意味である。パウロも「たとえ天使の言葉を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら」と漏らしている。彼の声は、余り美声ではなかったのか、とも想像される。

「大山さんの声って、ドラえもんをやっているから〝ドラ声〟って言うんでしょ?」若い女性に無邪気にこう聞かれ、声を上げて驚いたという。またこのアニメの原作者自身が、この声優のせりふ回しを聞いて「ドラえもんとはこういう声をしていたのか」と納得した、とも伝えられる。先ごろ「言葉の意味を変えるほど〝ドラ声〟は愛された」と評された声優の大山のぶ代氏の訃報が伝えられた。享年90歳であったという。26年間、かのキャラクターの声の主を務めたが,生まれたばかりの赤ん坊が、大人になる期間よりも長いので、あの声しか想像できない、と言われるのも当然であろう。

ある新聞はこのような追悼記事を載せている「独特のだみ声でアニメのドラえもん役を務めた声優の大山のぶ代さん。自身の幼稚園の入園式で名前を呼ばれて『はーい』と答えると後方の保護者たちがざわめき、そばに来て顔をのぞく人もいた。女児の声には聞こえなかったらしい。案じた母が医師にみせたら『人並外れて丈夫な声帯を持ったお嬢さんです』と言われたそうだ。変な声だと中学校で笑われて無口になったが、母に『黙っていたら、しまいには声も出なくなる。何か声を出すクラブに入りなさい』と励まされ、放送研究部で語ることに目覚めたという。この母なかりせば、天賦の声帯をいかす人生はなかったかもしれない」(10月13日付「筆洗」)。

「天賦の声帯」とは言い得て妙だが、造物主(つくりぬし)である神は、さまざまな豊かな賜物を自らの被造物(人間)に与えられる。しかし、その当人にとってはすぐにはそれを「賜物」として受け入れられず、「どうして私に」、とその不可解さに抗ったりもするのだが、いつかはそこに込められた恵みが見えて来る、ということであろうか。この唯一無二のドラ声の持ち主も、晩年は難しい病を抱えながら、ご主人に先立たれ、ひとり歩むという生活を余儀なくさせられた。

ある老人問題専門の方が、老年期とは、離別を教える学校だ、と語っている。確かに、老年期の問題は、離別である。或いは、喪失と言ってもよいかも知れない。人と別れ、物と分かれ、自分自身の身体的能力を奪われ、最後には死、つまり、自分自身そのものとも別れる、という深刻な問題をはらんでいる。しかも、それらの問題と、自分一人で立ち向かわなければならない。だれも、自分の代わりに死んでくれる人はいないからである。人はひとりで生まれ、ひとりで去っていく。ここにしっかりと目を注いでいくことなしに、生きる時の慰め、死んでゆくときの慰めを得ることは出来ない。モノであれ、人であれ、ひとつずつこれが自分と言えるものを、愛しているものを手放してゆく。あるいは奪われ喪失って行く。ついには自分自身さえも手放してゆく。それでも最後の最後まで残るもの、それが人生の根拠であり。土台といえるものなのである。それがあれば、大胆な発想の転換も出来るだろう。これを聖書では「悔い改め」、即ち「回心」「魂の方向転換」と呼ぶのである。

今日取り上げるフィリピ書は、パウロの最晩年の手紙であるとされる。書かれたのは大体55歳の頃であろうか。現在では50歳どころか、還暦を過ぎても決して老人とは見なされない。しかし紀元1世紀の時代では、50歳は自他共に認める老人である。著者はフィレモン書(フィリピ書と相前後して記されたと思われる)で、自身のことを「老人」と呼称しており、もう「残された時間」が少ないこともよく分かっている様子である。そういう状況の下、パウロはこの手紙を綴っている。

彼は誇り高い人間、プライドの塊のような人間である。5節以下「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。聞きようによっては鼻持ちならない優越感の塊のようだが、そういう意識から決して自由になっているわけではなく、まだどこかしらこだわりがある。そんなにすっきりした人ではない。同じところをぐるぐるしている、ただ一方で彼にはこういうはっきりとした思いがある。7~9節「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。この言葉は、フィリピ書の中心的な主張の一つなので、直訳してみたい。「わたしはすべてのものを損だと思う。わたしの主キリスト・イエスを知ることが、何にもまして素晴らしいから。キリストのゆえにすべてのものを失った。しかし自分のすべては塵芥(ごみ)のようだ。それはキリストを得るため、というよりキリストの内に見出されるためであり、つまり、わたしはわたしの義、根拠を持っていない」。自分が大切だと拘り続けてきた、ユダヤ人としてのプライドの一切、優越感、生まれ育ち、教育、知識、実践は、自分の救いとはならなかった。何ら自分の命を支えるものとはならなかった。まったく役に立たなかった、と彼は言う。これが彼のたどり着いた人生の結論なのである。生きる根拠、死んでゆくときの根拠、即ち自分を支えるものは、実は自分の中にはない。このパウロの洞察を皆さんはどう受けとめるか。

それでは私たちが生き、死んでゆくときの根拠はどこにあるのか。パウロはこういう言い方をしている。「それはキリストを得るため、キリストの内に自分が見出されるため」。空っぽの自分がキリストを得る、それがどういうことかと言えば、わたしの力でキリストをつかむのではなく、キリストに見出され、キリストに掴まれ、捕らえられることだ。他の誰でもない、キリストに見出されているという確信があるときに、私たちは人間の価値、損得、利益、優劣から自由になれる。身の回りの美しいものを、そのまま美しいと感じられ、もう何が出来ないかにができない、というところから、まだあれも出来る、これも出来る、つまり恵みを数えて生きる生き方が始まるであろう。

その根拠をパウロはこのような言い方で、明らかにしている。12節「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。「キリストに捕らえられて」、この言葉は、まだ彼が赤ん坊だった時の記憶が、思い起こされているのだろう。親が自分のすぐ前に手を伸ばし、手を拡げて、自分を抱き上げようとしている。その時に自分はどうしたか、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」、これは口語訳の方が上手く訳していた。「前のものに向かって身体を伸ばしつつ」、赤ん坊が親の手を目印に、そこに向かって目標を目指すかのように、懸命に「はいはい」している様子が語られている。但し、パウロは「もう自分は赤ん坊ではないよ」、と言いたいから、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。「走る」とはいえ、もうすでに老境のパウロである、そうした力はもはや失せているが、気力だけは満ちている、と言いたいのである。

ここで、もう少しだけ「ドラえもん」の話を。アニメにこういう一場面があった。ある日、主人公の「のび太クン」は“人生の道の選択で、運命が大きく変わった人。成功した人”の話を聴いて、とても感動する。”右”か”左”か、道1本で変わってしまう運命って確かにあるだろうが、そんな時に、「正しい道を教えてくれる道具を出して!」と、ドラえもんにお願いするのである。するとドラえもんが答えて曰く、『君は勘違いしてるんだ。“道を選ぶ”ということは、必ずしも“歩きやすい安全な道を選ぶ”ってことじゃないんだぞ!』、このアニメは結構、哲学的である。

近頃は大学の授業も実習的な学びが増えている。「人間関係学」という勉強は、要は友達の作り方を教えようというのである。こういう実習がある。学生に「大切な人」「大切なもの」「これからも続けたいこと」をそれぞれ3つ4つ書かせる。これだけ考えて書くだけでも結構、大変だろう、何も思い浮かばず書けない学生がたくさんいる。知恵を絞って何とか書けたところで、人生のシュミレーションをする。健康だった自分が病気になる。そして入院し、闘病生活をする。病気が重くなる、すると今までは難なく出来たことが出来なくなる。前もってメモに書いたことが出来なくなったら、その紙を破っていく。最期まで残るメモは何か、そしてそれが自分の生命を支える根拠なのである。自分の中にあるものは、やがて一切が失われ、消えて行くだろう。問題は自分の内ではなく、自分の外に、しかも目の前にあるもの、主の御手なのである。その御手は、十字架で釘打たれ、傷つき血が流れている。その開かれた手をもって、私たちを招いてくださる。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指して」。スポーツの秋でもある、体と心のストレッチに励みたい。