祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書4章21~34節

ある歴史学者が、学生時代のゼミの様子について、次のように伝えている。「授業では、他のゼミでも同様に、学生が回り持ちで自分が調べて来た内容について、各々が発表しながら進められていく。発表が終わると指導教授は必ずこう尋ねる、『それで何がわかったことになるのですか』」。そして「わかる」ということについてこう言葉を加えている「わかるということは、それ以前の自分が『かわる』ということです」。

マルコによる福音書4章には、大きい、あるいは小さな譬え話が、散りばめられている。最後のパラグラフ「突風を静める」と題されている話、主イエス一団が小舟で湖を渡ろうとしたところ、突然、嵐に見舞われ、弟子たちは右往左往するが、頼りの主イエスは、ぐっすり寝ている、という逸話もまた、当時の教会の状況を示唆し、世の嵐に翻弄される様子、を映し出している「たとえ話」のように受け取ることができるかもしれない。33節に「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえでみ言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかった」と著者はコメントしている。「聞く力に応じて」、とあるが、いわゆる「読解力」とか「理解力」等の「能力に応じて」という学力的な意味あいというよりは、聞こうとする気持ち、聞きたいと思う心を、より重く受け止めたということだろう。

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」(井上ひさし)、という言葉は、そのまま主イエスの語ったたとえ話に当てはめることができる。この世の中では得てして「やさしいことをむずかしく、むずかしいことをあさく、あさいことをつまらなく、つまらないことをいいかげんに」語るものだ。主イエスは決してそんなことをなさらなかった。まったく「面白い」という言葉の語源のように、集った人々が、一斉に顔を上げて主イエスを見つめ、その口から出るみ言葉に耳を傾ける。そしてそのみ言葉によって、一人ひとりの目の前が明るくされるのである。だからこそ、マルコが4章で並べて見せたように、こんなにも多くのたとえ話が、人々の心に留まることになったのだろう。今も私たちは、これらのたとえ話によって、主イエスの生の声にふれるのである。

今日の聖書個所の冒頭部分、21節もまた短いたとえ話のひとつであるが、主イエスの語る話がどのようなものであるかを、象徴的に示しているといえるだろう。「ともし火と秤の譬」と題されている。「ともし火を持って来る」と語られるが、原文は「ともし火が来ると」、で「持って」という単語は使われてない。今と違って、夜になれば漆黒の闇である。人々の集う場所に灯りが運ばれて来る。その時の様子を想像してほしい。そんなに煌々たる輝く光ではなく、ひとつの小さな灯りである。闇の中を光自体が向こうからやって来るように見えたことだろう。主イエスのたとえは、ごく身近な、民衆の生活の只中から生まれ、生活そのものの一コマを語るものである。誰もが普段の生活で味わっている、何気ない、当り前に見える出来事や事柄が、まるでともし火のように目の前にやって来て光を点し、目を明るくしてくれるのである。「面白い」という言葉の語源である。

ところが、折角、もたらされたその灯を、枡で覆ったり(燭台の火を消す時にそのようにする、灯心をくすぶらせないために、また燃えかすの匂いを防ぐために)、あるいは寝台の下に置く人も居る。何だ、ありきたりの話か、日常の些細な物事か、つまらない。おそらく、「損か得か」または「強いか弱いか」、また「大きいか小さいか」そして「正しいか間違っているか」という二分法でしか物事を考えられない人は、おそらく、折角のともし火も、こんな小さなともし火は、何のためにある、あるいは何の役にも立たない、と言って蓋をし、邪魔だとばかり横に取り除けてしまうのである。しかし、日常、あるいは生活というものは、「損得、大小、強弱、正邪」だけで成り立ってはいない、どっちつかずのあいまいな、灰色な世界なのである。だからこそ主イエスは「聞く耳のある者は、聞きなさい」と言われるのである。

これに続けて、主イエスは弟子たちに語られている。「何を聞いているかに注意しなさい」。「汝ら聴くことに心せよ」と文語訳は記している。かつてこの国の高名な演出家は、演技し台詞を語る俳優に、しばしばこう問いかけたという。「君は今、どう聞いたのか!」。芝居はひとりで演じる訳ではない。共に芝居をする役者との言葉のやり取り、掛け合い、駆け引きで成り立つ。すると自分が台詞をどう上手く語るかよりも、相手の語る言葉をどう聞いたか、で芝居の生き死にが左右されるであろう。ひとり芝居であったとしても、それは全くの独り言ではない、台本の言葉をまず聞いて、その聞いたところに従って、語るのである。だから「自分が量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」。ここで用いられている用語の「秤」は、重さを計る「天秤」ではなくて、「物差し」、「メジャー」を指すようである。「聞くこと」は、自分の「物差し」つまり判断や価値観、人生観、何が大切なのか、という感覚と繋がっている。

そもそも主のたとえ話は、何を語るものなのか。日常の出来事、普段の生活、当り前の人生の一コマが語られている。しかしそれでお終いなのではない。26節、また30節以下で語られる「種のたとえ」にそれが明確に語られている。「神の国は次のようなものである」。主イエスのたとえ話は、実に「神の国」を伝えるものなのである。「神の国」、学者たちはこぞって「神の支配」という意味だと説明する。神の国は、国土や領土とかいう地理的場所を表す概念ではなく、「神の働き」を意味する動的な用語なのである。神が御手を伸ばされ、出来事を起こされる。それはどこなのか。遥か天のかなた、深遠なる宇宙の果てにではない。では、この世を去っていつか皆、誰もが行くと言われる天の世界、魂の世界にか。そうではない。今、ここに、私たちが生かされているこの地上に、今、生きているこの場所に、日常に、神は手を伸ばされ、出来事を起こされる。どこに、あなたはその神の支配を見るのか、いや正確には、どこに神の言葉を聞くのか、どのようなみ言葉を聞くのか、ということである。「何を聞いているか、心せよ!」