収穫感謝礼拝「打ち破る者が」ミカ書2章12~13節

今日は「収穫感謝礼拝」である。今は一年を通して、同じ野菜や果物が店頭に並び、季節感、いわゆる「旬」の風情が失なわれている時代であるが、やはり「実りの秋」を迎える頃になると、私たちの生命を支える食物になる「収穫」のありがたさや恵みを思わずにはいられない。

あるりんご農家の方が、こう語っていた。「たくさんのりんごが並んでいると、つい真っ赤なものを選びがち。黄色い筋が入っていたり、色ムラがあると『おいしくないのではないかな?』と思ってしまいます。でも、実はりんごのおいしさに、色は関係ないのです!なぜなら、りんごのおいしさを左右するのは、葉っぱがどれだけ太陽を浴びたかどうか、ということだからです。1つのりんごの実の成長には、約60枚ほどの葉っぱが必要と言われています。その葉っぱが光合成をし、栄養を実に送ることでりんごはどんどん甘く、おいしくなっていきます。葉っぱが多かったり大きいと、りんごはその影に隠れてしまうことがあります。すると、りんごの色には黄色っぽくなったり、ムラがでるのです。でも、それこそ葉っぱがついている証拠!実、そのものが影に隠れていても、太陽の光を十分に浴びた葉っぱから栄養をたっぷりもらうことで甘くなる、という訳なんですね」。私たちはとかく外観に目を奪われがちだが、味は「実」自体の美しさにではなく、どれだけ「葉」が太陽の光をしっかり浴びたかに左右される、というのである。

そしてこんな質問もしている「突然ですが、みなさんはキズのあるりんごと、ないりんごが並んでいたら、どちらを選びますか?黒い小さなキズ、時々見かけますよね。もし、全くキズのないりんごと並んでいたら、きれいものを選ぶ人が多いと思います。でも、実はこのキズこそが、甘さの印だったんです♪りんごはキズができると、それを治そう、治そうと栄養をより多く補給するため、旨味がアップすると言われています」。キズがある実の方が「甘い」というのである。これを単純に人間やら人生に直に当てはめることは、少々乱暴であろうが、自然や生命というものの不思議さ、奥行きの深さを考えさせられる逸話である。皆さんの人生の果実の味わいは、どのようなものであろうか。

今日は旧約のミカ書に目を向け、ここからのみ言葉を味わいたい。ミカ書は、モレシェト・ガトの農民であったミカの言葉を収めている書物である。この地出身の有名人は、あの怪力無双のサムソンである。神から賜物として大いなる力を賜る、ところがその怪力によって、彼は己の人生に大きな苦労をも背負い込み、その最期は悲劇的な結末を迎える。「多く与えられたものは、多く求められる」そんな人生であった。

さてミカは、そうした華々しい英雄ではなく、一介の田舎百姓である。そうした農夫が神の召しによって預言者として立てられ、神の言葉を告げる、ある意味、「収穫感謝」にふさわしい聖書個所であろう。この預言者はアモスから少し遅れて、イザヤと同時期、前8世紀に南王国ユダで活動した人と思われるが、旧約の預言者の中では、早い時期に活動した預言者のようである。その語る言葉は、正に火を噴くかの如く、為政者、支配者に抑圧されている農民の苦しみに共感し、横暴な人たち(その中には賄賂をもらって依頼者に都合の良い預言をする預言者や祭司も含まれる)の不正を厳しく糾弾し、非常に激しい神の裁きを語る人である。このような激しい言葉の背後に、預言者自身の体験を見る学者もある。彼はアッシリア帝国の侵攻によって、戦争で土地を追われた農民、今で言う難民のひとりではなかったか、という。ちなみに彼の故郷、モレシェト・ガトは、現在のガザにほど近い場所に位置する。

今日のテキストは、表題にあるように「復興の預言」が語られている。もしかしたら後の時代の預言者の言葉が付加されたものかもしれないが、やはり大手術をして病人に薬も塗らなければ包帯も巻かないでは、患者当人は死んでしまうだろう。やはりどのような厳しいみ言葉を語った者でも、その行き着く所を意識しないでは、いられなかったであろう。今日のテキストでは、実に興味深いことに、2つの対照的な事柄が語られている。

大抵の事柄には内側と外側、内面と外面、裏と表という二つの領域、二つの世界があるものだ。人間存在はまさに端的にそれを映し出している存在である。どちらが正しく、どちらが本当か、どちらが大切かという議論は空しいだろう。どちらも大切で、どちらも本当の自分なのである。エレミヤという預言者は、「心はよろずのものにまさって偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」と語った。この人間洞察の言葉を聞いてどう思うか。心は何にも優って偽るものだ、というのである。ある心理学者は少しおどけて「こころ嘘つく、からだ嘘つかない」と語っている。口では「大丈夫です、がんばります」、と言っていても、「倒れて起き上がれない」ということが人間には度々ある。「がんばります」そこのところを忖度して,気を回し心を使うのが、この国の心情、美徳だとかつては言われた。今はどうか。人間の内と外の働きは、それが手を繋いで、互いに支え合って、補い合って、その人を守っているのである。内だけ、外だけ、では人間は生きられない。だから昨今のコロナの状況は、そういう意味で人間に対する大きな挑戦でもある。

12節で神は言われる「わたしはすべてのものを呼び集め、残りの者を呼び寄せる」皆さんは残り物か、聖書では残りの者に、おまけのようなものにこそ、神の福、祝福が訪れると語られる。残ったものを神は捨てることなく「羊のように囲いの中に導いて、ひとつにする」という。そして集められたものは、「共にさざめく」というのである。「さざめく」とはいい訳語である。直訳すれば「喜びに騒ぐ」、つまり「飲み食い喋り、共に笑い、歌を歌う」ことが「さざめく」。この12節は、旧約のみ言葉であるが、教会の有様について、語られているようにも読める言葉である。何と教会の特徴を生き生きと抽出しているか、特に「人々と共にざわめく」とは、喜びが回復され、楽しみが分かち合われ、それが大きなどよめきのようになる、私たちは今、これが回復されることを心から祈り、待ち望むのである。なぜならそれこそ教会の命、また姿であるだろうから。真面目で厳粛である、しかしそこに喜びが無かったら、生命はどうなるであろう。

ところが一転するかのように13節では、前節と反対のことが語られる。「打ち破るものが、彼らに先立って上ると、門を通り、外に出る」。12節が教会の内側の様子について語っているのに対して、13節では教会の外への働きについて、語るのである。「打ち破る」という激しさをもって、外に出て行く。随分強い言葉で、力づくの破壊行為のような印象を与えるのだが、因習とか思い込み、とか重荷、あるいは偏見とか、人間をがんじがらめにするような不自由な罪の縄目を打ち破る、ということであろう。

ミカの時代に即して言えば、この時、聖書の世界パレスチナでは、メソポタミアの大帝国アッシリアが、その地を席巻すべく、虎視眈々と狙いをつけ、手を伸ばそうと隙を伺っている時代である。ミカはその圧力によって、故郷を追われたのである。それでは大神殿のあるエルサレムはどうであったかと言えば、アッシリアにおべっかを使い、常にご機嫌伺いをして、高価な貢物をしてどうにかこうにか国としての体裁を整えている有様であった。つまり、「囲いの中に(押し込められている)群れのように」小さくされてぶるぶる震えている様子である。「彼らは人々と共にざわめく」どころの話ではない。

ミカの語る内と外の回復のヴィジョン、「囲いの中に、群れは皆で共にざわめく」という内の有様と、「打ち破る者が、彼らに先立って上ると他の者も打ち破って、門を通り、外に出る」という外への有様、この2つの異なる世界が、どのように結びつき、つながっているのであろうか。

北海道で教育実践に励んでいる堀裕嗣氏という教師がいる。この人がSNSでこんな発信をしている(@kotonoha1966、2022年12月)。「教師に必要な資質。1.いつも笑顔でいること。2.孤独に耐える力をもつこと。3.無駄とわかっていることに取り組めること。4.子どもといっしょに馬鹿げたことを一生懸命にやるのを楽しめること。5.いつでも変われること。今を壊し、新しい自分になることを怖れないこと」。非常に実践的刺激的な教師論であるが、こういう資質はどうやって生み出されるのか。「結局、人は『楽しい雰囲気』の中でしか育たない。大人も、子供も。楽しみがあるからこそ、高いハードルにも挑戦しようとする。生徒たちを見ていても、研究会で成長していく若手を見ていても、これを実感する。『楽しさ』と『成長』が融合された瞬間を実感したとき、人はそれを『充実』と呼ぶ」。「結局、人は『楽しい雰囲気』の中でしか育たない」、りんごの木の葉が、たっぷりと太陽の光を浴びているなら、結ばれる実は、その色がどんなであろうと、まだらであろうと色が悪くても、おいしい実なのである。さらに、表面の傷は、その故に却って甘さを増すのである。

教会は「集められ」、そして「散らされる」場所である。さらに再び集められ、再び散らされるのである。この教会の働きは、主イエスご自身の宣教の姿と重なっている。主イエスはさまざまな人々、誰も彼もどんな人も、みもとに招かれた。罪人、病人、子ども、ここにあるさまざまな野菜や果物のように。主イエスの下で、人は「共にざわめく」のである。しかし集めて囲いの中に閉じ込めたのではない。「打ち破る者が、彼らに先立って上ると他の者も打ち破って、門を通り、外に出る」、自分の十字架を負って、わたしの後ろに従いなさい、と外に向かって、共に歩み出されたのである。教会は、主イエスが招いてくだ人々の群れである。しかしその集められた、中にいる人々を、門を開けて外で出てゆくように働く場所でもある。それは、自分勝手にではない、神が手を引っ張り呼び寄せ、また先頭に立って外へ押し出すからである。

次週、わたしたちは今年のアドヴェント(待降節)を迎える。この世に、神のみ子が誕生される。そのみ子の下に、私たちは羊のように集められ、群れ集う。そしてこの主イエスを牧者として、導かれまた新しい旅に歩み出すのである。