師走のこの時期になると、毎年、一年の締めくくりの意味をこめて、「この年の世相」がいろいろ取りざたされる。世相とは人間のあり方、生き方の現れなので、流行は「ことば」に最も端的にあらわされると言えるだろう。今年のユーキャン「新語、流行語大賞」に、「ふてほど」という言葉が選ばれたと伝えられた。これはどういう意味なのか。一聞するだけでは何のことやら不明である。
今年、放送されたあるドラマのタイトルから来ているらしい。「不適切にもほどがある」、そのドラマでは、俳優の阿部サダヲさん演じる昭和の体育教師が、2024年にタイムスリップし、現代では不適切とされる発言を繰り返すという筋書きである。「コンプライアンス(法令遵守)」が重視される今の時代に(最も問題になるのは、普段何気なく使っている「ことば」である。あんなこと言わなければよかった、という過去に後悔の思いを持たない人はいないだろう。うかつにも、思いもよらなかった、とはいうものの、心に思っているからこそ、口から出て来るのであるが、それが厳しく問われ、非難される時代である)、「正しさ」に悩む社会を風刺して話題を呼んだと評される。ドラマの演出担当者(金子文紀氏)は「新聞、雑誌、ネット記事などで『不適切にもほどがある』という言葉が使われ、うれしい半面、今年は不適切なことが多かったということかと、複雑な心境でもある」と話していた。
「不適切」という言葉は、政治の世界でも「不祥事の釈明」によく使われる。辞書では「適切」とはぴったりあてはまること、その反対の用語の「不適切」は、ぴったりあてはまらないことぐらいの意味になる。会社とか団体の会計処理は、法的にきちんと規定されている。しかし架空の事務所に経費を計上した閣僚の疑惑、辞任劇などの場合、ふさわしい形容は「不正」ではないのか。「『不適切』などという生ぬるい表現は犯罪の悪質さをぼやかそうとするもの」という識者の批判も聞こえて来る。
さて、今日は「士師記」に目を向ける。その物語の中でも最も劇的で、奇想天外なサムソンの物語を取り上げる。聖書中の「英雄物語」の典型である。この物語に先述される「ギデオン」にまつわる話も、またそのひとつであるが、サムソンを描く物語は、破天荒で、人間離れをしており、プロットや、ストーリー展開も、まさにエンターテインメント文学として、現代に十分に通用するほどである。だからこの物語を題材にして、小説に再話されたり、映画化されてきたことも頷ける。
古典的な「英雄譚」を構成する要素なるものがある。現代でもその手法を用いて映画や文学が構成されている。「奇蹟的であるが、貧しい誕生」、「衆人にぬきんでている」、「超自然的な力を発揮する」、「邪悪との闘争と勝利」、「傲慢さのために失脚ないし重大な過誤に陥る」、「詐謀にかかり、または自己犠牲による悲劇的死」。こうした要素が、そのままぴったりとサムソンの物語には当てはまるのである。
先ほど、今年「ふてほど」という言葉が人の口に上ったとの話題を紹介した。倫理的に見れば、イスラエルの「士師」のひとりとして、“神によって”立てられたこのサムソンというキャラクターは、決して手放しでは褒められない人物だろう。「不適切にもほどがある」という振る舞いや発言、奔放な生き方をしている。しかし「聖人君主」と評される人物に、人は尊敬の念は抱くだろうが、あまり魅力を感じたり、憧れを抱いたりはしないものだ。ましてや文学の世界では、劇的な筆の力が大きくものをいう。作家は、最初には、自分が意識的、主体的に文章を書いているが、その内に作品自体が生きているもののように変わり、作中の人物が勝手に動き回り、作家は自分で書いているにもかかわらず、書かされているような状態になって来るのだと言う。そういう作品ほど、後に「名作」の評判を取るそうである。
この章は、サムソンの物語の序章であり、彼の出生の秘密が語られている。子どもは、身近にいる大人にも、自分と同じような「子ども」の時代があったことを知って、驚くのだという。大人はみんな、最初から大人であり、自分とは全く違う存在なのだと考えているという。子どもと大人の間には、断絶があり、深淵があり、そこを何らかの方法によって飛び越して、人は大人になって行く、というのが、古代人の思考である。
だから一般に「人間」とは、「大人」を指すのであり、子どもは、「小さな人」として、人間の部類には入らない。だから古代文学では基本的には、「子ども」は描かれることは少ない。英雄の伝記、物語も、基本的には、大人時代から書き起こされ、記されるのが通例である。但し、聖書の記述は異なる。長々とサムソンの出生にまつわる逸話を記し、英雄の生涯のプロローグを事細かに著述する。即ち聖書は、最初から最後まで、人間の一生をトータルに捉えようと努めるのである。
やがて生まれて来る赤ん坊は、「生まれる前からナジル人として、神にささげられている」と語られる。「ナジル」とは「聖別される(ナジール)」から派生した言葉で、「修道士、あるいは出家者」のような意味合いの用語である。神に特別に誓願をかけて、そのようなものとなるのだから、いくつかの制約が課せられる。1つ、生食であれ、乾物であれ、ジュースであれ、酒であれ、ぶどうは決して口にしない(ぶどうは美味しい食物、し好品の典型だから、皆の好物を絶って、煩悩を避ける)、2つに、死者、死体に触れない(ケガレを避ける)。3つに、髪の毛を切らない。ナジル人となったその人が、他の人と違う立ち位置にいることを明確にするためである。僧侶や聖職者がまとう悪く言えば仰々しい式服のようなものか。やはり「聖なる人」である。皆と同じでは格好がつかない。神に誓願をかけるだから、通常の人とは見た目も、生活も、ふるまいも、一線を画さなければ、ということである。
普通「聖別された人」というとどんなイメージを思い浮かべるか。世にいう聖人君主とは、どんなスタイル、風体の人だろうか。因みに、ロシア正教会の司祭は、「ひげを生やすべし」という伝統的な決まりがある。だからひげの薄い人は、どんなに熱意や能力、努力をしても、司祭にはなれないのである。また、相撲取りも、「まげ」が結えなくなったら引退するという決まりがあると聞いたことがある。ただナジル人の風体は、見る人に異様に映ったことだろう。サムソンは生まれる前からのナジル人で、恋人デリラに騙される前まで、髪に剃刀を当てることはなかった、と伝えられる。外見は怪力無双の、ロン毛の大将だったろうから、彼に出会った人は、言われなくてもソーシャル・ディスタンスをきちんと守ったことだろう。
比較的長口舌で語られるサムソンの生涯の物語の内で、この章は、昔からクリスマス前に読まれることになっているテキストである。それは、3節「主の御使いが彼女(マノアの妻)に現れて言った『あなたは身ごもって男の子を生むであろう』」、このみ言葉が、イザヤのメシア預言の言葉を彷彿とさせ、後のマリアへの、天使ガブリエルによる受胎告知を思い起こさせるからである。
「この年の流行語」云々するのは、この国ばかりの企画ではない。こんなニュースが伝えられている。「『manifest(マニフェスト)』という言葉が、ケンブリッジ辞典の2024年の年間単語に選ばれた。『望むことを実現させるため、視覚化や肯定的な言葉を使って想像する』という意味で、近年ソーシャルメディアで人気を集めている概念だ。この言葉は14世紀から英語で使われており、もともとは『明白な、明らかな』という形容詞、または『はっきりと示す』という動詞としての意味だった。それが20世紀に入り、『内面化によって何かを実現させる』という新しい意味を持つようになった。目標を日々意識することの重要性。『書き出し、声に出し、毎日それを見ることで、通常は実現する』、『望む結果を強く思い描けば実現する』。」(原田高志)。そんなにうまく行くものか、本当にそうかどうかは、自分でやってみるのが一番であろうが。
サムソン、この破天荒な、波乱に富む、尋常ではない奇天烈な人生、私たちの目からすれば「ふてほど」であり、決して「幸い」とはいいがたい、悲劇的な最期を迎えたひとりの人物について、皆さんはどう判断をするだろうか。業績や遺徳、功績等について、おそらく、万人の目が等しく認め、称賛を与えるというものではないだろう。もはや人間的な基準、物差しでは計ることができない、それこそが「英雄」の英雄たるゆえんであろう。
アドヴェントというから派生した言葉に「アドヴェンチャー」があるという。「待つことは冒険なのである。確かに、良い機会は、時を待たねばならないだろうし、その時をエイッとばかりに捕らえる度量も必要であろう。怖れるばかりでは、何も生れないから、見る前に飛び込まなければならないのである。
今年のこの教会のクリスマスの絵柄は、受胎告知の場面である。毎年、教会のクリスマスの絵は和田健彦兄が心込めて描いてくださり、感謝を表したい。天使ガブリエルが突然現れて告げる、「あなたは身ごもって男の子を生むであろう」。思いがけない受胎告知のお告げに対して、マリアは語る「お言葉どおり、この身に成りますように」と。直訳すれば「み言葉によって、あるがままに」、真実のマニフェストは、ただ神のみ言葉である。それは私たちにとって、実に「その名は不思議」であるが、後になれば、み言葉は必ず「成る」のである。その神のマニフェストに己の人生を託すことほど、アドヴェント(アドヴェンチャー)にふさわしいもの、そしてサムソン以上の英雄はないであろう。「飼い葉桶」の幼子が、私たちの「救い主」となるのである。