「門松は(正月は)冥土の旅の一里塚」という歌がある。一休禅師の作と伝えられるが、しばしばこの世の無常さを教え諭す言葉と解釈される。もっとも正月早々に、皆がおとそ気分で浮かれている中、どくろを手にして巷間を歩き回った人とも言われるので、へそ曲がりの心を歌っただけかもしれない。この歌に因むわけではないだろうが、先週の5日は、「ゆいごん(一、五)の日」とされており、「ゆいごん川柳」の募集なども行われていた。今年の大賞は「遺言を書いたつもりが感謝状」の句だったという。確かに私たちの行きつく所、やはりそうなるだろうし、そうありたいものだ。文句たらたらだったら、やはり死ぬに死ねない。
齢を重ねることは、経験を増し加えることだと一般には見なされている。経験を重ねると知恵とスキルが身につき、この世の処し方が上手くなる、というのである。ところでこういう文章に出会った。諏訪敦彦氏(すわのぶひろ1960年生、映画監督)、台本を創らない即興的演出技法という独特のスタイルで知られる。2020年制作の『風の電話』が第70回ベルリン国際映画祭ジェネレーション14プラス部門に出品され、スペシャル・メンション(国際審査員特別賞)を贈られた。「私は、自分が『経験』という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。『経験という牢屋』とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種『賭け』のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは『探求』といってもよいでしょう。その探究が、一体何の役に立つのか分からなくても、そのような飛躍は、経験では得られないのです」。
「経験」が役に立たない時がある。「誰も経験したことのない事態に出会った時」そもそも、生きている現実は、毎日同じことの繰り返しのような出来事の連続のように思えるけれど、本当は今日の一日は、今だけのものであり、そして私の今日は、他の誰の今日とも置き換えられない日であり、さらにそこにどんなに平凡に思えるにしても、その日だけの出来事が生起してくるのである。経験が通用しない、「跳躍」を必要とする、踏み出すしかない、えいやっと飛び跳ねるしかない、そういう人生の直地点がある、成程と思う。
今日はマタイによる福音書の「主イエスの洗礼」の記事に目を留める。新年にこの個所が参照されるのは、ここに主イエスの最初の言葉が語られているからである。マルコ福音書では、「悔い改めよ、神の国は近づいた」をもって、主イエスの宣教の口火切りとしているが、マタイはこの宣言は、バプテスマのヨハネのものと位置付けている。確かに「悔い改めよ」は、荒れ野の預言者と目されたヨハネの口にこそふさわしいと思える。ならば、主イエスの第一声は何か。「今は、止めないでほしい」。
1968年、学園紛争たけなわの頃、とある大学の学園祭ポスターのキャッチ・コピーが、「止めてくれるな、おっかさん、背中で銀杏が泣いている云々」であった。後に作家となった橋本治氏が学生であった時に物したという。子どもが親や周囲から、「止めろ」と言われて、素直に「はい」と言って従うなら、それは最初から本気でやろうとは思っていないのである。子どもはやろうと思ったら、突き進むものである。皆、どこかしらそれを経験して、今の自分がある、そのくせ、自分の子どもを含めて、他人には「止めろ」という。
ここでの主イエスとヨハネのやり取りは、そんな情景すらも彷彿とさせられる。「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」。初代教会にとって、主イエスの受洗の事実、その釈明は、頭の痛い難問であった。主イエスの受洗は、まぎれもない事実であったろうから、ないことにはできない。しかしそうなると主イエスはヨハネの弟子と言うことになるし、罪の悔い改めのバプテスマというからには、神の子である主にも「罪」があった、ということになる。今でもそっくりそのままだが、世の中にはいろいろ言葉尻を捕らえ、難癖つけて攻撃しようとする輩も多いのである。だからマタイ福音書は、こんな両者のやり取りを、言い訳のように付け加えている訳である。
それでもこのやり取りに込められている事柄には、深く考えさせられるものがある。主イエスが自分の所に来られて、バプテスマを受けることに戸惑い、それを思いとどまらせようとするヨハネに、主イエスはこう応答している、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。まず洗礼は、主イエスご自身の確固とした意志の現れであり、他人に言われて、忖度からそうしたのではない、ことが暗に語られている。そして人は誰も、自ら正しいと思うことを、すべて、つまり自分の精いっぱいで行うしかない。私たち人間にとって、生きるということにふさわしいと思える事柄があるなら、そうしてやってみるしかないだろう。それがどのように転がってゆくにしても。どうなるかを怖れて不安に立ち止まっていても、不安そのものは消えはしないだろう。どちらにしても不安なら、転がってみるのも一理あるのではないか。
但しこの「正しさ」は、「神の義」と訳すべき用語である。私たち人間の正しさと共に、神のなさる正しさがある。この世界を人間の正しさだけで見て判断し、それだけで世界を創り上げることはできない、神の正しさが、現れるのが世界なのであるが、悲しいことにそのみわざを、人間はすべて知ることはできないし、その時にことごとく了解できるわけではない。だから、その時、今、与えられている状況の中で、ふさわしいと受け止められることを行うしかない、ということであろう。そんなあやふやの中で、やみくもに事が進んで良いのか、といぶかる向きもあるだろうが、そもそも「神の義」は、人間の不確かさ、不透明さあるいは狭さを貫いて、現れ出るものではないのか。
「私は、自分が『経験』という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました」、この言葉は、かの映画監督が自分の母校でもある芸術系大学の学長をしていた時になされた入学式の式辞の一節である。この折に撮られた会場のスナップが添えられている。新入学生たちが真剣な面持ちで学長式辞に聞き言っているが、創造の翼を拡げようという学びの門出の式に集まった学生たちは、ほとんど皆、黒いリクルート・スーツのいで立ちである。そういう画一的な姿の新人たちは、この方の「経験という牢屋」をどう聞いたのか。
ヨハネのもとに、主イエスがやって来られる。「あなたが,わたしのところへ来られたのですか」(14節)。意外さや驚き、当惑をあらわにした率直な言葉であるが、このヨハネが口にした言葉は、実は私たち自身の言葉でもある。「あなたが(あなたの方から)、わたしのところへ来られたのですか」。私のところに、あなたの方から。そしてこれが神の正しさの姿なのである。主イエスは、狭い自分の「経験」という牢獄の中に留まって、動かない方ではない。自分の方から歩み出し、罪ある者、悲しむ者、痛む者に近づいて行かれる。それはヨハネの下でのバプテスマに始まり、多くの人々の間に向かわれ、ついにその足は、エルサレムでの十字架に至る。これこそが「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行う」主のみわざなのであるその歩みの中に、主イエスが私と出会ってくださった。そこに私たちのバプテスマの根拠もある。
「『こども映画教室』でも僕は子どもたちに即興でやらせます。書かれたシナリオに基づいて撮ったものを最初に見たら、学芸会のようだった。誰かが書いたものをやらされるとそうなりますね。だけどそれを解き放つと、ワーッとみんなで話し出して、役者の子も自分で動き出します。誰かに言われてやるのではなく、自分が自分として映画の中で何かを表現する。それは美しいことですよね。人に言われてやっているのを見るよりは、みずから動いている人を見るほうがやっぱり美しいと思う」(『風の電話』諏訪敦彦監督インタビュー)。
「誰かに言われてやるのではなく、自分が自分として映画の中で何かを表現する。それは美しいことですよね」。「神のなさることは時にかなって美しい」、旧約の知者の言葉であるが、そのように神は働かれる、それを美しいと受け止める広々としたこころを、持ち続けたいと願う。