「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」、昔、映画監督の黒澤明氏が出演した洋酒会社のCMでこの言葉が使われていたのを覚えているだろうか。非常に印象的で、後々まで残るキャッチだと思った記憶がある。この素敵な言葉の出典を調べたが、どうやらこの世界的にもあまりに有名な映画人が、自分の映画をつくるときのモットーとしていた言葉であるらしい、同名の本を出版されている。
この監督の映画は非常にリアリズムが追求されていて、それで大胆な映像にあふれているとしばしば評される。一緒に仕事をしたある俳優氏(土屋憙男)がこういう思い出を口にしている。「監督が『馬が芝居してない!』と怒るので、『おい、芝居しろって云ってるよ』と馬に云ったら、『馬鹿もん!お前が操らなきゃ駄目じゃないか!』とまた怒られた。監督が怒ってるのは馬にも解るんです。撮影が終わって馬丁に引かれて一頭ずつ並んで帰る時、馬が黒澤さんを避けて遠く迂回して歩いて行った。黒澤さん『おれは馬にまで嫌われた』と云ってました」。演じる人間ばかりでなく、馬にまでリアルと迫力を求めているのである。それを馬が感じ取るというのも、スゴイ。
この名言、少し心に引っかったのは、なぜ天使ではなくて、悪魔のほうが「細心」なのか、である。細心なのは天使でなく悪魔、大胆なのは悪魔ではなくて天使の方、どうしてか。ある評論家はこんなコメントを記している。「たとえば、完全犯罪をやろうとしている悪魔のような人間は、絶対に犯罪が露顕しないよう緻密な作戦を立てなければならない。詐欺師などはその典型で、彼らは自分の嘘がバレないよう、それこそ細心の注意を払いながら言葉を選び、嘘の人間になりすます必要がある。しかし、悪とは無縁で善の象徴である天使のような人間は、何かを嘘でごまかす必要もないから、正々堂々としていればいい。つまり、大胆でいいということだ。そういえば、天使が愛の矢を人間の心に射るなんていう行為は、考えてみれば大胆極まりない」(小泉十三『人生は名言で豊かになる』)。準備は周到に、実行は思い切ってに、という教訓にも通じる言葉といえるだろうか
受難節の始まりの聖日には、いずれかの福音書の「荒れ野の誘惑」の記事が読まれることになっている。最初の教会では、主イエスの荒れ野での苦しみを偲び、自らも断食を行って受難節を迎え、日々過ごしたからである。共観福音書のどれにも、長短の違いはあっても同じ出来事が記されているが、マタイの独自性は、荒れ野に赴いた理由が、「悪魔から誘惑を受けるため」だと強く主張するところにある。他の福音書は、古来からの聖者伝説に倣って、「荒れ野で断食をして、悟りを開こうと、己の欲望と闘い苦行する」という描き方である。しかしマタイは「悪魔からの試み」こそが、荒れ野への旅の動機だと主張しているのである。
「荒れ野で悪魔が試みる」、とは誠に似つかわしい舞台設定ではないか。ひとり、誰もいない所、他人の目が届かない隠れた所、人間生活の営みや保護とは、およそ無縁の場所で、しばらく時を過ごす、放っておかれる。すると人はその時どうなるのか、何をするのか。「小人閑居して不善を為す」という故事があるが、皆はそういう生活、何もないひとり暮らしを心から楽しめそうか。人間の生きる基本は「衣食住」の三文字だが、「荒れ野」は、このすべてを欠いている状態の場所である。いわば「切羽詰まった」場所である。小説では大抵、切羽詰まった状況が設定され、主人公がその中で、あれやこれやすったもんだする。つまり何もない場所、世界でこそ、人間のありのままが露わにされるのである。荒れ野は日常生活とは対極な「切羽詰まった場所」、極めて象徴的な所なのである。
荒れ野(砂漠)を身近な世界に暮らす人々は、「砂漠は不思議な場所だ」と語ることがしばしばある。例えば、何の塩梅か、遥か遠くにいる人の話声が、すぐ耳元で聴こえて来たり、暴風の中に、何やらささやくような、時には喚き、呻くような声が、風に交じって聴こえたりする、というのである。日常と全くかけ離れた世界は、人間の通常の感覚とは別の、普段は隠れ秘められた意識をも表に引きずり出すのであろうか。
マタイは悪魔のことを「試みる者」と呼んでいる。いわば人間の最も弱い所、弱点を揺さぶる存在というのである。弱い所をゆすぶられると、人は「本音」、即ち隠しておきたい本当の心を露わにする。旧約で悪魔・サタンは、み使いのひとりとみなされて、神とのお目見えの栄に浴している。殊更に神に逆らって、積極的に悪だくみを企て、悪さをする、というのではない。人の弱みを見つけその弱点をゆさぶり、ことさら意識させて本音を吐かせ、心の底の秘め事を神に告げ口をするという、どちらかと言えば「嫌な奴」であり、それで人がドジばたするのを面白がっている節があるから、やはり「悪い奴」である。
今日の個所で、悪魔は、三つの事柄を主イエスに問いかける。3節「これらの石が、パンになるように命じたらどうだ」。パン、つまり食べ物についての問いであるが、生命に直結する切実な事柄、つまり「生存」の問題である。次の事柄は、6節「神の子なら飛び降りたらどうだ」。衆目を前に、あっと驚くような手腕を発揮して、評判を取ったらどうだ、というのである。これは「名誉」あるいは「人からの評価」の問題である。さらに8節「(この世の国々とその繁栄ぶりを見せて)これをみんな与えよう」という。これはこの世の「権力」や「お金」を手に入れる、あるいは人間関係で「力」を持つことを表している。
こうして読んでくると、「荒れ野の誘惑」の物語、主イエスと悪魔の対話は、人間の隠された心の内の、深い所にある本音を露出する狙いで記された文学であるともみなすことが出来るだろう。人間が最も気にすることは何か。まず「食べ物、パン」つまり己の「生存」のこと。そして「名誉やら人からの評価」、さらに「権力、お金、あるいは力関係」、おおよそこの世で、人間はこの三つの事柄を巡って、あくせくし汲々として、何ほどかのものを手に入れつつ、何とか生きようとするのである。生きるためのセイフティネット、公的福祉を拒絶するのも、三つのしがらみがまとわりつくからである。自分のみじめさを人に知られたくない。自分自身もそれを目の当たりにしたくない、しかしそれでは生きていけない、この堂々巡りである。
そして荒れ野とは、見事に、この三つがすべて取り去られた世界である。だから人間の住めない場所、生きられない所なのである。そこで人は、はじめて、人間が何により頼んでいるか、何に繋がっているか、縋り付いているのか、そもそも何が本当に自分を支えてくれるものとなるのかが、真に問われることになる。
「荒れ野」とは、旧約では二重の意味を持つ場所である。一方で人が居住せず、荒れ果てた場所のことである。寂しい所で、野獣の住み処であり、悪霊はじめ魑魅魍魎が跋扈する処と信じられた。だから自分から好き好んで行く場所ではない。既述のように「激しい風の中に、不気味に響く何者かの声や、叫び、呻きが聴こえることがある」。
しかし他方、荒れ野は、イスラエルの人々が出エジプトの後に、40年もの間放浪した場所でもある。自分たちを奴隷から解放してくださった神と共に、最も側近くに生活し、日々を歩んだ場所なのである。聖書の人々にとって、荒れ野こそ神との出会いの場所でもあった。だからそこで過ごした40年の間「着物も擦り切れず、足も腫れなかった」と想起されている。着物とは「守られる」、つまり必要が満たされること。足とは「生きる力」であり、希望や活力が失われなかったことの比喩表現である。
ここで記される「荒れ野」もまた、二重の意味がある。荒れ野は「悪魔」と出会う場所であり試練の中に置かれる、同時に「天使が仕える」場所でもある。そしてそこにも主イエスがおられ、歩まれるのである。悪魔と天使と、さらに主イエスが同居している「荒れ野」、とは奇妙だが、非常に面白い風景ではないか。
最初に「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」という黒澤明氏の言葉を紹介した。天使と悪魔は敵対し合う間柄ではなくて、腐れ縁のように、つかず離れずの間柄なのかもしれない。テネシー・ウイリアムズという作家はこう言っている、「もしわたしが自分の悪魔を追い払うなら、自分の天使をも失うことになるだろう」。小説に天使だけが登場するのでは、文学にはならないだろう。天使と悪魔が同居して、はじめて作品になるのである。そして小説は、人生の縮図でもある。多分に文学的な物言いだが、私たちは人生で悪魔としかいい得ない者に悩まされ、翻弄される。それでも人生がだめにならないとしたら、そこに見えない神の使いが居てくれるから、ではないか。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』、そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。
この主のもとに、私は行き、そこに身を置くのである。主のおられるところには、悪魔は離れるのである。
今日は、教会に連なる子どもたちはじめ新しい出発をする方々を覚えて、祝福を祈る。人生にはいろいろな誘惑や苦しみ、更に荒野を経験する舞台である。しかしその荒れ野で神に出会い、悪魔と戦ってその誘惑に打ち勝ってくださった主イエスがおられる。今もその主は、私たちと共におられるのである。それこそが、私たちにとっての安心、平安の源である。新しい出発をされるひとり一人に、主イエスが共にいてくださることを祈りたい。